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井伊直虎と徳川家康の本当の関係とは?

うみ

 

 

井伊直虎(柴咲コウ)と徳川家康(阿部サダヲ)の関係は、1560年、織田信長が圧倒的劣勢を覆し、今川義元(春風亭昇太)を打ち破った「桶狭間の戦い」から始まったと言えるのではないでしょうか。この戦のときには、井伊家・徳川家(松平家)ともに今川家に従属していました。

 

 

 

直虎の父であり、井伊家の22代宗主である井伊直盛(杉本哲太)は、徳川家康とともに、この戦の先陣を今川義元に任されていたのです。織田信長が今川義元の首を取り勝利した後、徳川家康は故郷の岡崎城を奪還。

 

 

 

織田信長と清州同盟を結び、今川家から独立します。一方、井伊直盛は追腹し、奥山孫市郎(奥山家は井伊家の庶子家)に遺言と介錯を託し、生首が井伊谷へ持ち帰られました。

 

 

 

その当時、許嫁である従兄の井伊直親(三浦春馬)が死んだと思い、出家をしていた直虎(出家名は次郎法師)は、父の生首をどのような気持ちで見たのでしょうか。

 

 


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直虎の決断

 

 

「桶狭間の戦い」で宗主である直盛を亡くした井伊家では、直虎の元許嫁の井伊直親が次の宗主になりました。しかし、井伊家の悲劇は続きます。1562年、今川氏真によって謀反の疑いがかけられ、弁明に向かおうとしたところを討たれてしまいます。

 

 

 

さらに、直虎の曽祖父・井伊直平が翌1563年、今川氏真の命令で戦に向かう最中で急死してしまいます。これにより、井伊家の男は直親の息子・直政(菅田将暉)しかいなくなってしまいます。

 

 

 

ただ、当時の直政はまだ2歳。井伊家にとってはお家存亡の危機になります。そこで出家していた次郎法師が還俗し、「井伊直虎」と名を変えて「女地頭」(当時の「地頭」は「領主」の意)となります。

 

 

 

ただ、虎視眈々と井伊家の所領を狙っていた家老の小野政次に所領を奪われてしまいます。そこで直虎は、義元の死後、力を落としていった今川家に見切りをつけ、徳川家康の力を借りる決断をすることにします。

 

 

 

徳川家康と井伊谷三人衆の力を借り、所領を奪還し、徳川家康に臣従することになります。ここから、井伊直虎と徳川家康の関係は深まっていきます。

 

 


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直政の仕官

 

 

再び所領である井伊谷に帰ってきた直虎は、直政を養子として迎えられることにします。そして1574年、鷹狩りに出た徳川家康に「策」を用います。

 

 

家康の目に留まるように、目立つ着物を着せ、四神旗(天の四方をつかさどる神。青竜、白虎、朱雀、玄武を描いた四本の旗)を持たせたのです。直虎の策ははまり、直政は家康の目に止まり、浜松城へ連れて行かれ、素性を聞かれます。

 

 

 

桶狭間の戦いで共に先鋒を務めた井伊直盛の親戚、井伊直親の実子と知って徳川家康は驚き、「井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)」(家臣として召し抱えないわけにはいかない)と言って300石を与えたといいます。

 

 

 

更には徳川家康の幼名「竹千代」から「千代」の字を与え、「井伊万千代」の名が与えられます。その後、井伊直政は、主君徳川家康が「本能寺の変」のあとに岡崎城へ帰還した伊賀越えの大任を果たします。

 

 

 

酒井忠次や本多忠勝、榊原康政と共に徳川四天王に数えられています。徳川家康はこの時の井伊直政の懸命な働きを高く評価し、一生この恩を忘れなかったそうです。

 

 

女地頭と呼ばれた井伊直虎は、伊賀越えの大任を果たした直政を待っていたかのように、1582年に亡くなります。直政は徳川家康の養女を娶り、大名となり、その後の井伊家の繁栄を築くのです。

 

 


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