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井伊直虎の居城・井伊谷城の特徴とは?

城

 

 

井伊直虎がおんな城主となった井伊谷城(いいのやじょう)の歴史は古く、平安時代、1010年頃に井伊家の開祖・井伊共保(いいともやす)が築いたと言われています。

 

 

ただし、築城年代・経緯は明らかにはなっていません。築城からおよそ300年後の南北朝時代に井伊谷城は歴史の表舞台に登場します。

 

 

 

 

後醍醐天皇の南朝方に味方した井伊道政が1337年に後醍醐天皇の皇子である宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう)をお迎えしたという記録が残っています。

 

 

 

そして、宗良親王を擁して北朝方と戦いましたが、1339年〜40年に足利尊氏の北朝方武将、高師泰(こうのもろやす)・仁木義長(にっきよりなが)らに攻められ落城してしまいます。

 

 

 

その後、井伊家は北朝方に属し、駿河・遠江の守護となった今川家に臣従します。戦国時代になると、1568年に家臣の小野道好に奪われますが、井伊直虎が徳川家康の力を借りてすぐに奪還。

 

 

 

1572年に武田信玄の家臣・山県昌景に奪われますが、翌1573年に武田軍が撤退します。そのため再び井伊直虎がおんな城主となります。

 

 

1590年、井伊直虎の跡を継いだ井伊直政が家康に従って関東に移ると、井伊谷城は廃城となり、井伊谷城は井伊家発祥から約580年の歴史を閉じたのです。

 

 


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井伊谷城の特徴

 

 

浜松市文化財課では、2017年1月から始まるNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送に合わせて、2016年に井伊谷城の詳細な測量図を作成しました。井伊谷城の測量は初めてのことでした。

 

 

 

今回の測量で詳細が明らかになりました。井伊谷城は標高115mの城山山頂に築かれた単郭式(一つの曲輪と若干の附帯施設からなる程度)の城郭で、南東に大手口がありその延長部分には井伊家の居館が位置することが明確になりました。

 

 

 

山頂にある詰城である井伊谷城と山麓の居館が密接な関係を持つことを裏づける特徴として注目されます。山頂部分が切り開かれていて、南側は平坦で方形の区画を意識して構築されています。

 

 

 

ただ、北側は自然の地形がそのまま残り、造成工事が及んでいないことが分かりました。山頂部南側、方形の区画に65m×57mの城館があったと思われます。城郭は、幅2.5m×高さ2mの土塁に囲まれていて、堀はありませんでした。

 

 

 

江戸時代の地誌では、井伊谷城を「御所丸(ごしょのまる)」を呼んでいて、南北朝時代に宗良親王が井伊谷を拠点としていたのではないかと言われています。

 

 


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井伊谷城の今

 

 

井伊谷城の跡地は、現在は公園として整備されています。「井伊谷城跡城山公園」といい、土塁などの遺構がわずかに残る程度ですが、山頂からは井伊谷地域や浜松市内が一望できます。

 

 

 

登城口から山頂にある城館の跡までは、人にもよりますが、およそ15分のゆるやかな山を登ります。とても静かでゆっくりと時間が流れている場所です。

 

 

 

ハイキング気分で山を登り、山頂部の開けた城郭跡では、戦国時代には、こうして領地を見ていたのかなと思いながら井伊谷地域を見渡すと、ちょっと井伊直虎の気分を味わえるかもしれません。

 

 

 

【アクセス』

 

・JR東海道本線の浜松駅からバスで井伊谷バス停下車

 

・天竜浜名湖鉄道・金指駅より徒歩30分またはバス

 

・新東名道・浜松いなさICより国道257号線経由6q(引佐図書館を目指すと分かりやすいかもしれません。)

 

※駐車場:城山公園駐車場(無料)

 

 


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