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井伊直虎と織田信長の関係とは?

しゃちほこ

 

 

井伊直虎(柴咲コウ)の生まれは正確には分かっていませんが、1536年頃(天文5年)と言われています。一方、織田信長は1534年(天文3年)に尾張国(現在の愛知県)で誕生しました。信長の方が2歳ほど年上ですが、同世代の武将でした。

 

 

織田信長というと、室町幕府を滅ぼし、天下統一の礎を築いた戦国武将です。しかし、当時の織田家はまだ戦国大名ではありません。信長の父・織田信秀は尾張国の大名・斯波氏の守護代であった織田家当主・織田信友に仕える奉行に過ぎませんでした。

 

 

 

大名の斯波氏が今川氏との戦いに敗れ、斯波氏の力が衰えると、守護代の織田家が実権を掌握します。その後、織田家内部の家督争いを勝ち抜き本家の織田信友を殺害し、分家の血筋であった織田信長が当主になり、尾張を統一し戦国大名になります。

 

 

 

織田信長は自らの智勇をもって下剋上を勝ち抜き、大名へとのし上がったのです。その頃、井伊直虎はまだ歴史の表舞台に登場していません。井伊家は、今川家に臣従し、井伊谷という小さな領地を守ることで精一杯でした。

 

 


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井伊直虎の運命を変えた!?桶狭間の戦い

 

 

井伊直虎、そして井伊家の運命を変えたのが、日本史上名高い「桶狭間の戦い」です。駿河・遠江・三河と尾張の一部を支配し、海道一の弓取りの異名を持つ今川義元(春風亭昇太)が満を持して2万余りの軍勢を率い、上洛の途につきます。

 

 

 

一方の織田信長の軍勢は2000人から3000人。当初は、今川軍が織田軍の丸根砦、鷲津砦を落とすなど優勢でしたが、織田信長は豪雨に乗じて、今川義元率いる本隊を奇襲し、総大将・今川義元の首級を挙げ、勝利します。

 

 

 

この勝敗は、多くの有力戦国大名に衝撃を与えたと言われています。また、井伊家にも衝撃が走ります。なぜなら、桶狭間の戦いの先陣の将を務めたのが、井伊直虎の父・井伊直盛(杉本哲太)だったのです。

 

 

 

井伊直盛は、戦場で討ち死にしたとも、主君である今川義元の戦死を聞くと、その場で切腹して後を追ったとも言われています。

 

 

 

当主である直盛を失い、その後は家督相続をめぐり、家老の小野政次らと対立し、井伊家の男は幼い直政を残し、全員が死亡することになります。その結果、おんな領主・井伊直虎が誕生するのです。

 

 


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井伊家復興は本能寺の変にあり

 

 

桶狭間の戦いに勝利した織田信長は、その後美濃攻略を皮切りに「天下布武」を掲げ、天下統一を目指すようになります。1570年には姉川の戦いで朝倉義景・浅井長政連合軍と、1575年には長篠の戦で武田信玄亡き後の武田勝頼と戦います。

 

 

 

1576年には畿内に勢力を広げていた一向宗と、それぞれの戦いに勝利して敵を次々に撃破していきました。また、1573年には、室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を終焉させました。

 

 

 

残る上杉、毛利、長宗我部らの戦国大名には、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)ら配下の武将を派遣し、制圧しようとします。しかし、1582年に重臣の一人・明智光秀の謀反に遭い、わずかな手勢で逗留していた京の本能寺で天下統一を目前にして命を落とします。

 

 

 

そのとき徳川家康(阿部サダヲ)は、信長の勧めで堺の町を見物していました。家康のもとにいたのはたった34人の家臣のみでした。その中に井伊直虎の養子・井伊直政(菅田将暉)がいました。

 

 

 

井伊直政は、明知軍や落ち武者狩りから家康を守り抜き、無事に伊賀越えを果たし、三河に帰還します。同年、直政は元服し、結婚もしています。そんな直政の活躍ぶりを見届けたあと、井伊直虎は静かに息を引き取ります。

 

 

 

栄華を極めつつ、家臣の謀反により自害した織田信長。井伊谷という小さな領地と井伊家を守ることに奔走し、子供の活躍を見届けた井伊直虎。どこか対照的な武将だったと思いませんか。

 

 


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