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小野政次の最期は本当に近藤康用に磔にされたの?

切腹

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」で、広く知られている小野政次高橋一生)ですが、その生涯とはどのようなものだったのでしょうか?井伊家筆頭家老の立場でなぜ対立してしまったのでしょうか?

 

 

 

また、小野政次最期とはどのようなものだったのでしょうか?小野政次はどのような人物だったのでしょうか?時代の波に翻弄された人物といっても過言ではないでしょう。

 

 

 

 

小野政次はどんな人物?

 

小野政次は、父が井伊直盛(杉本哲太)の家老を務めていた小野政直(吹越満)の嫡男として誕生しました。小野家は井伊家の重臣として活躍していましたが、今川義元(春風亭昇太)とも深い関係にありました。

 

 

 

小野政次は父の跡を継ぎ家老職に就きました。その時の主君は、井伊直盛でした。井伊直盛は、このとき、駿河の大大名今川義元に従っていました。

 

 

 

政次にとって大きな転機が訪れたのは、1560年です。この歳にあの有名な桶狭間の戦いが起こります。当初は、今川方の勝利を疑うものはおらず、織田信長に敗れるとは誰も思っていませんでした。

 

 

 

井伊家も、今川義元に従い、諸説ありますが、およそ300人が出陣していたといいます。小野政次は、この時、出陣してはいなかったのですが、主君である井伊直盛と弟の小野朝直を桶狭間の戦いで失います。

 

 

 

井伊家の損害は激しく有力な家臣も多く討ち死にしています。この桶狭間の戦いがなければ、小野政次の最期も変わっていたのかもしれません。今川家も井伊家もこの桶狭間の戦い以降数奇な運命をたどることになります。

 

 

 

 

小野政次桶狭間の戦い後

 

桶狭間の戦いで思わぬ大敗を経験した今川家はこれ以降大きくその力を失っていきます。また、井伊家でも大きく状況が変わります。井伊直盛の死後、当主の座に就いたのは、養子の井伊直親でした。

 

 

 

直親の父は小野政直に謀殺されており、その子である直親も命を狙われていたため、長く他国に身を寄せていました。その直親が主君になったので、小野政次の立場は大きく変化しました。

 

 

 

この直親と小野政次が対立することは誰の目にもあきらかでした。それは、やがて現実のものとなります。1563年、小野政次は当主の井伊直親が松平元康(阿部サダヲ)に内通していると、今川氏真に報告します。

 

 

 

これが本当なのか、嘘だったのかは諸説ありますが、その報告を受けた今川氏真(尾上松也)は井伊直親を駿府に呼び出します。井伊直親は駿府で今川氏真に謝罪に向かいます。

 

 

 

その途中で、今川家の家臣に襲われ、討ち取られてしまいます。小野政次が謀殺したとも言えます。その後、井伊家は大河ドラマの主人公にもなった直虎が主君になります。

 

 

 

しかし、小野政次は井伊直虎に謀反を起こし、井伊谷城を奪い取ってしまいます。今川氏真の命を受けて奪い取ったと言われています。

 

 

 

小野政次の最期

 

小野政次の最期とはどのようなものだったのでしょうか?井伊谷城を奪い取り一時的に城主となりますが、井伊家も黙ってそれを見ていたわけではありません。

 

 

 

やがて、小野政次から城を奪い返すために徳川家康の力を借りることにします。井伊家は家康の力を借り、井伊谷三人衆が先頭になり井伊谷城を攻撃します。

 

 

 

その攻撃を受けたため、小野政次は近くの洞口に隠れていましたが、井伊谷三人衆の1人、近藤康用に捕縛されることになります。

 

 

 

ただし、これには諸説あり、近藤康用ではなく他の武将に捕えられたとも言われています。捕縛された小野政次は磔にされたと言われています。小野政次の最期は処刑され、その息子達も後に処刑されたと伝わります。

 

 

 

小野政次が井伊谷城を支配していたのは、わずかな期間で、どこか明智光秀と通じるものを感じるという人も多いでしょう。大河ドラマで描かれている、小野政次は実際のものと少し違っている部分が多く描かれています。

 

 

 

 

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