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大蔵卿局は無能で裏切りものって本当なの?

峯村リエ

 

 

このページは、真田丸で悪役になっている大蔵卿局(峯村リエ)が無能で裏切りものだったと噂されることについてみていきます。

 

 

本当に豊臣方の裏切りものだったのか。無能だったのかについて解説していきます。

 

 

 

茶々(竹内結子)が、北近江を領地としていた戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に生まれたときから、大蔵卿局と茶々との二人三脚の人生が始まります。茶々の乳母として選ばれたのが大蔵卿局でした。

 

 

 

乳母の最大の仕事は赤ちゃんのときの”授乳”です。しかし、その後も乳母が養育係として生涯を共にケースも多々ありました。大蔵卿局の出自については定かではありません。

 

 

 

茶々が生まれた浅井家の家臣の娘であったといわれています。1570年、姉川の戦で浅井長政が織田信長に敗北し、滅亡するとお市の方とその娘の茶々たち姉妹は居城である小谷城から脱出します。大蔵卿局も茶々たちと一緒に小谷城から逃れています。

 

 

 

織田信長の死後、お市の方は柴田勝家と再婚しますが、1583年に柴田勝家が豊臣秀吉(小日向文世)との戦いに敗れ、北の庄城は落城します。大蔵卿局はお市の方から三人の娘を託され脱出します。

 

 

 

その後、茶々が豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(中川大志)を生むと、大蔵卿局が養育係を務めたとも言われています。茶々が幼いころから乳母を務め、生涯その傍らで苦楽を共にし、どんなときも大蔵卿局は茶々の側にいて、献身的に支えました。

 

 

 

幼くして両親を失った女の子であった茶々にとっては、母親のように頼れる存在だったのではないでしょうか。茶々にとっては、それだけの大きな存在だったのです。

 

 

 

 

大阪の陣のきっかけは、大蔵卿局?

 

 

豊臣秀吉の死後、秀吉の正室であった北政所(鈴木京香)が大阪城を去ると、秀頼と生母・茶々が大阪城に入ります。そのときも大蔵卿局は一緒でした。そして、主のいなくなった大阪城の奥を取り仕切るようになります。

 

 

 

1614年、秀頼が進めていた方広寺大仏殿再建で事件が発生します。方広寺の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文章が徳川家康(内野聖陽)に呪いをかけ、豊臣家が君主として繁栄することを願ったものだと徳川家康から難癖をつけられるのです。

 

 

 

秀頼は片桐且元(小林隆)を釈明のために派遣します。しかし、且元は家康に合わせてもらえず、側近に「秀頼の駿府、江戸への参勤」「茶々の江戸に住まわす」「秀頼が大坂を出て他国へ移る」の3つどれかを受け入れるよう言われ、帰路につきます。

 

 

 

一方、且元が知らないところで大蔵卿局も家康のもとを訪れていました。おそらくは茶々がなかなか進展しないのを見かねて派遣したのではないでしょうか。

 

 

且元とは対照的に大蔵卿局は、すんなりと家康に会うことができ、方広寺の鐘の件に関しても「心配には及ばない」と言われます。大蔵卿局と片桐且元は大阪城に戻る途中に近江で会い、それぞれの交渉結果を話します。

 

 

 

大蔵卿局は且元の話が家康から聞いたこととあまりにもかけ離れていることに驚き、且元よりも先に大阪城に戻り、茶々に報告をします。茶々を初めとする秀頼の家臣たちも真逆の結果に驚くとともに且元を疑うようになります。

 

 

 

身の危険を感じた且元は大坂城を出て行き、徳川方に付いてしまいます。こうして豊臣家と徳川家の戦い、大坂の陣が始まります。大蔵卿局が大阪の陣のきっかけを作ったとも言えますよね。

 

 

 

ただ、彼女はただ事実を報告しただけで、結果的には、豊臣方全員が徳川家康の策略にはまってしまったのです。このことで、大蔵卿局が無能だったという言われ方もあるようですね。

 

 

 

ただ、大蔵卿局はあくまで茶々という女性を育てるための乳母であり、当時の女性としての教養である和歌などは身につけていたとは思いますが、政治・外交・武芸といった大名に必要なものを身につけていたわけではありません。

 

 

 

家康の策略を見抜けなかったのは、仕方なかったのではないでしょうか。むしろ、大蔵卿局を家康との交渉に行かせなければならないほど、秀頼のそばに有能な家臣がいなかった当時の豊臣家の内情を表しているとも言えます。

 

 

 

 

大蔵卿局は豊臣方きっての忠義者!?

 

 

大蔵卿局は、その後も大阪冬の陣の和睦の交渉を徳川方と行っています。大蔵卿局と息子・大野治長は人質を差し出す条件で秀頼の命を助けるように求めています。大蔵卿局は、自分の孫を人質として差し出しているのです。

 

 

 

孫を差し出してでも茶々の息子である秀頼を守りたかったのでしょう。いったん和睦が成立したかに見えましたが、徳川家康はあきらめていませんでした。大阪城の堀を埋めたところで、再度大阪城に攻めかかります。大阪夏の陣です。

 

 

 

掘を埋められた豊臣方に徳川の大軍を防ぐ手立ては残されていませんでした。大阪城は落城し、茶々、秀頼は自害します。大蔵卿局が豊臣方の裏切り者ではないか?という意見もあるようですが、これは違うのではないでしょうか。

 

 

 

茶々を追うように大蔵卿局もこのときに自害しています。茶々とともに二度の落城を乗り越え、三度目の落城の時にともに最期を迎えた大蔵卿局。豊臣方の裏切り者ではなく、豊臣秀頼の生母・茶々に自分の半生を捧げた女性だったのです。

 

 

 

その生涯から見てもわかるように、大蔵卿局が無能で裏切りものだったという事実はないように思います。裏切り者であれば、茶々や大蔵卿局自身が自害することにはならなかったのではないでしょうか。

 

 

 

 

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