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真田幸村の幼少期はどのようにすごしてたの!?

赤ちゃん

 

 

真田幸村(堺雅人)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将です。1567年真田昌幸(草刈正雄)の次男として甲府に生まれました。

 

 

 

本名を信繁といい幼少期の名前を真田弁丸のちに源次郎と名乗っています。正式名称は信繁で幸村というのは通称にあたります。この信繁という名前は父・昌幸が武田信玄の弟である武田信繁を尊敬していたことから名づけられました。

 

 

 

武田信繁は兄・信玄に匹敵する名将でしたが、川中島の戦いで信玄をかばって戦死しました。自分の命よりも名をとり一族のために戦う姿は後の幸村の人生を物語っているようです。

 

 

 

そもそも真田幸村の祖父である真田幸隆は武田信玄の重臣で武田家と深い関係にありました。そのために、父の昌幸も同様に武田家に仕えていてんねな。

 

 

8歳の時に長篠の戦い!

 

 

 

 

1575年真田幸村が8歳のとき長篠の戦があり、武田武田勝頼が大敗すると真田家当主の信綱と次弟である昌輝が討ち死にしました。このことで3男であった父・武藤昌幸が真田家を継ぐことになったのです。

 

 

 

それまで、武藤の姓を名乗っていたのは昌幸が、当時武田家の足軽大将として活躍した武田庶流の武藤氏の養子となっていたためです。名を改めて真田昌幸として幸村を連れて信州・真田郷へ戻りました。このとき真田幸村は、9歳前後でした。

 

 

 

真田幸村が幼少期を過ごした時代は小国にとって苛酷であらゆる面で生きるために毎日が戦いの日々でした。祖父であった幸隆が役職上越後の上杉領を監視する立場でしたが、父昌幸も城代を引き継ぎました。

 

 

 

そのため幸村も父に伴い甲府から上野国へ移ったのです。1579年には武田と上杉間で甲越同盟が締結されたものの、相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻して上野国は引き続き緊張状態にあったのです。

 

 

 

 

織田信長に仕えるも本能寺の変!

 

 

真田幸村は一時期武田勝頼(平岳大)への人質として、母や兄の信幸(大泉洋)と一緒に甲府へ送られていたことがあります。ところが1582年天目山の戦で信玄の子・勝頼も自刃して主君の武田家は滅亡しました。

 

 

 

ここからが激動の日々となります。真田家は命運をかけて織田信長に名馬を贈り独立大名の道を探りますが、わずか3か月後の6月に本能寺の変で織田信長は死去します。

 

 

 

7月には北条氏の配下になるも9月には徳川家康(内野聖陽)に従属するという目まぐるしさで状況が変化しました。1585年には再び幸村は人質として徳川家に置かれます。

 

 

 

このように幾度も人質となり小国の辛酸をなめて人生の形成期を過ごしました。この経験で耐え忍ぶことと臨機応変に策略を練る術を身につけて行ったのです。

 

 

 

 

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