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真田信繁と沼田城いったいどんな関係なの?

城

 

 

上杉謙信死後に起きた御館方の乱により、上杉景勝(遠藤憲一)所領の沼田城が北条勢により制圧されました。甲越同盟により武田勝頼(平岳大)の命を受けた真田幸村(堺雅人)の父である真田昌幸(草刈正雄)は、沼田城の奪取を命じられます。

 

 

 

そして、1580年に謀略を用いて沼田城を無血開城し城を制圧しました。それ以降は、沼田城は真田氏の支配下の城となりました。長篠の戦以降、武田勝頼が亡くなり武田氏が滅亡します。

 

 

 

すると、旧武田領は空白地となり、周辺の大名が虎視眈々と狙う地になります。真田氏は上田城を中心に戸石城と沼田城をおさえていましたが、長篠の戦以降は織田信長の配下の滝川一益(段田安則)に協力し周囲の侵入を防ぎました。

 

 

 

本能寺の変で信長が亡くなると後ろ盾を失った真田昌幸は徳川家康(内野聖陽)に協力します。そのことで、のちに沼田領はもめることになります。

 

 

 

 

徳川家康ともめた沼田城!

 

 

しかし徳川家康と北条が領土問題で揉め、徳川家康から領土交換の話が出ると、協力関係をとき徳川からもらった領土ではないと拒否し上杉景勝と同盟を結びます。

 

 

 

今度は上杉家と協力し、徳川と北条両軍の侵入を防ぎます。そして、豊臣秀吉(小日向文世)の元について真田昌幸は、豊臣家により北条氏が滅亡した1590年以降は、真田信之(大泉洋)の居城となり領地を治めました。

 

 

 

1580年に初めて真田氏が奪取した時、真田幸村はまだ、14歳です。幸村が青少年期を過ごした城として名が記されています。沼田城は、利根川と薄根川の合流する地点より北東にある台地に据えられた城です。

 

 

 

二つの川に挟まれ高台に建造された城で難攻不落の堅牢な城として何度も真田家の窮地を救っています。

 

 

 

 

小松姫に入れてもらえなかった昌幸と幸村!

 

 

幸村の父・真田昌幸や兄信之、信之の子孫たちを含め真田5代の居城として栄えました。関ヶ原の戦前に、真田昌幸と真田幸村父子が沼田城に立ち寄った時にこんなエピソードがありました。

 

 

 

留守を任されていた信之の妻・小松姫(吉田羊)が昌幸・幸村親子を不審に思い城に入れなかったという逸話です。関ヶ原の戦いで西軍に参戦することを決心した昌幸が孫の顔を見るために沼田城を訪ねました。

 

 

 

しかし、城を奪われると危惧した小松姫は武装し舅であっても主人の留守中に城内に入れられないと門前で拒否したのです。昌幸と幸村は城近くの正覚寺に泊まり、翌朝小松姫が子を自ら連れて行き面会が実現したという話です。

 

 

 

その後、関ヶ原の戦後も、昌幸と幸村のいる九度山に小松姫は詫びの手紙と食料を何度も送っています。沼田城には、真田家にまつわるいくつものエピソードが存在するのです。

 

 

 

 

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