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石田三成はなぜ忍城を攻略できなかったのか?

城

 

寺小姓であったところを、3杯の茶によって豊臣秀吉(小日向文世)に見出された石田三成(山本耕史)の出世物語は有名です。

 

石田三成と真田幸村の本当の関係とは?

 

秀吉ほどではないにせよ、石田三成もまた戦国を、己の才覚一つで成り上がった男であったと言えましょう。

 

 

 

 

もっとも、石田三成には目立った武功・武勲(戦での手柄)がありません。その出世は主に実務、経済やら補給・輸送において類稀な才覚を発揮したためです。その才は太閤検地の際に一際強く発揮されました。

 

 

 

その才能無くして、戦場での功績を持たぬただの側小姓、側用人が、30そこそこにして城持ちの大名にはなり得るはずもありません。恐らく石田三成は、メチャメチャ優秀なオツムの持ち主だったのです。

 

 

石田三成は頭がよくズケズケ言う男!

 

 

 

 

今で言えば東大法学部首席卒業後、官僚のエリートコースを突っ走る秀才、みたいなものになるでしょうか。現に出世街道をひた走り始めてましたしね。しかし、その手の秀才は大抵、自分以外の人間がバカに思えるもののようです。

 

 

 

私の知り合いにもいますね。簡単な実務を効率よく片づけられない同僚を、この上ない憐れみの目で見下ろす輩。石田三成がその手の人種であったらしいことは、記録にも残っています。

 

 

 

石田三成はそこで、礼儀作法を守らず遠慮のないことをズケズケと言ったそうです。己が優秀だからとは言え、身分の上下構わずズケズケとモノを言う石田三成は、さぞかし周囲から煙たがられたに違いありません。

 

 

 

時にはそれが豊臣秀吉の威光を笠に着ての所業とも思われたことでしょう。みなもと太郎の傑作マンガ『風雲児たち』の外伝では、平懐者ぶりを遺憾なく発揮して皆の結束を壊す石田三成を、大谷吉継(片岡愛之助)がどつきまわすシーンもありました。

 

 

 

石田三成は忍城(おしじょう)を水攻めに!

 

 

さて、石田三成の忍城攻めは、1590年6月、秀吉の小田原攻めと平行して行われました。秀吉は22万とも言われる大軍を率いて小田原を攻めたわけですが、北関東の北条側国人たちの所領攻略にも、かなりの人員を割いたわけです。

 

 

 

石田三成が率いるのは彼の親友・盟友でもあった大谷吉継。真田昌幸(草刈正雄)ら大名らも合わせると総勢二万を超える大軍でした。館林城を降伏・開城させた石田三成の次の標的が武蔵国忍城でした。

 

 

 

周囲を沼地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことが出来ない忍城は、関東七城にも数えられる名城です。正面からの攻めでは突破できぬと判断した石田三成は、秀吉の備中高松城攻めに習って、この忍城を水攻めにすることを思いつきます。

 

 

 

さっそく早速近在から十万の人夫を集め、忍城を囲む堤を作り始めました。石田三成の有能な指揮により、堤は5日で完成します。しかし突然大雨が降りだして堤が決壊。濁流は忍城ではなく、寄せての石田三成らに襲いかかり、水攻めは失敗。

 

 

 

水の退いたあとは以前にも増した泥濘地となって、忍城攻めどころではなくなった、というのが一般的な通説です。結局落城しなかった忍城は、小田原で秀吉に帰順した忍城主・成田氏長の勧告で、一ヶ月以上の籠城のあとようやく開城したのです。

 

 

 

数では十倍近い兵力で攻めながら、最期まで落とせなかったことから、この忍城攻めは石田三成の指揮官としての無能を示す例に出されることも多いです。それだけ忍城に三成はてこずったのです。

 

 

 

 

石田三成の人望のなさが忍城を落とせなかった理由?

 

 

近年の研究では、忍城を水攻めにすることはこの上なく困難であったことがわかってきました。高松攻めを再現しようと試みる秀吉の差金であったという説を述べる人もいますが、忍城を落とせなかったのには他にも理由があるように思います。

 

 

 

これは、あくまでも個人的な予想になりますが、忍城を落とすことができなかった最大の原因は、石田三成のあまりにきつい物言いに嫌気の差した配下の大名たちが、やる気を全然出さなかったからではないか。そう思っています。

 

 

 

「忍城之儀、御手筋を以て、大方相済につけど、然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」忍城攻めについては、あらかたの準備はできました。

 

 

 

しかし、諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。これは水攻めの際の石田三成の嘆き節として引用されることの多い資料です。しかし、見方を変えると諸大名たちの別の声が聞こえてくるような気がしてなりません。

 

 

 

「いいよいいよ、どうせ秀吉の真似して水攻めなんだろ?もうそれでいいじゃん。終わり終わり」お前の言うことなんて聞いてられっかよ、という、大名たちのモチベーションが上がらない心の声が聞こえます。

 

 

 

この石田三成の人望のなさが、後の関ヶ原で全く同じように繰り返されることになろうとは・・・神でもない石田三成の知るよしもないことだったでしょう。しかし、関ケ原でもこの忍城と同じ結果が待っていようとは・・・歴史は繰り返します。

 

 

 

石田三成という武将の縮図がこの忍城を落城できなかったことに詰まっているような気がしてなりません。それだけ、三成は苦労し悩んでいた忍城攻めだったのです。

 

 

 

 

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