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西郷どん ネタバレ,あらすじを最終回まで暴露!

西郷隆盛

 

このページは、西郷どんネタバレあらすじ感想を最終回までお伝えしていくページになります。感想は、大河ドラマ「西郷どん」を見た後に公開することになります。

 

 

 

なので、感想については実際に始まってからご覧いただけたらと思います。個人的には、西郷隆盛(鈴木亮平)を題材にしている今回の大河ドラマにはすごく期待しています。

 

 

 

決して、歴史に詳しいわけではないのですが明治維新あたりの歴史がすごく好きだからです。だから、真田丸やおんな城主直虎の時よりも楽しみにしています。

 

 

 

西郷どんのネタバレ,あらすじ,感想については、1〜50話まで順番にのせていきす。好きなところからみていくようにしてくださいね。このページは「西郷どん」のネタバレ・あらすじ・感想が全部読めるようにします。

 

 

 

このページにさえ来ていただければ、西郷どんを一緒に楽しめる内容にしていますので、是非お気に入りやブックマーク登録してくださいね。

 

 

 

 

西郷どん ネタバレ,あらすじ予想

 

西郷隆盛は薩摩(現在の鹿児島県)の生まれです。西郷隆盛の父親・小姓組の役職を与えられて仕事をしていました。西郷の父はここで財務の才能を認められ、島津家の一門衆である日置家の仕事も任されるようになります。

 

 

 

西郷の父は150石をもらっておりましたが非常に貧乏でした。西郷家が貧乏だった理由として、子供がたくさん生まれた事と徳川の体制が揺らいでいたことが原因です。

 

 

 

西郷隆盛の家がどのくらい貧乏だったのかを知るエピソードとしては、小さい頃みんなで一枚の布団に入って引っ張り合いながら、寝ていたそうです。

 

 

 

夏なら鹿児島は夜でも温度が高いので布団を引っ張り合いしないで寝られたと思います。しかし本州の南端でも冬になれば温度は日中に比べて下がり寒かったはずです。

 

 

 

冬でも一枚の布団を引っ張り合いながら寝ていたとすればかなりきつい生活を強いられていたのだと想像することができます。

 

 

 

学問に励んだ事が身を助ける

 

西郷隆盛は8歳頃からそろばん・読み書きなどの勉学に励んでいきます。そんな西郷隆盛の友達は有村俊斎・伊地知竜右衛門・吉井幸助などです。そして彼らと一緒に勉学に励んでいきながら、生涯を通して西郷に深く関わることになる大久保正助(瑛太)とも友達になります。

 

 

 

大久保正助は西郷達の仲間の中で一番議論に長けた人物でした。西郷は大久保正助の議論を黙々と聞いていたそうです。こうして幼少期を過ごしていた西郷は仲間達と一緒にお宮参りに行くことにします。しかしここで事件が起きてしまいます。

 

 

 

西郷の友達が他の郷士と大喧嘩してしまうのです。西郷は友達と郷士の間に入って喧嘩を止めようと努力している最中、他の郷士の刀が西郷の腕を深く傷つけてしまいます。

 

 

 

西郷は命に別状はありませんでしたが、刀を握ることができなくなってしまうのです。しかし幼少期から学問に励んでいたこともあり、薩摩藩の郡方書役助に就職することになります。

 

 

 

一生の中で一番悲しい年

 

島津家はお家騒動を乗り越えて藩主が交代します。島津家は藩主・斉興(鹿賀丈史)が引退することになり、新たに島津斉彬(渡辺謙)が藩主に就任することになります。島津斉彬は開明的な藩主として知られ、幕末の名君の一人に数えられるほど、優秀な人物でした。

 

 

 

島津斉彬が薩摩藩の藩主に就任した翌年、西郷隆盛にとって「一生の中で一番悲しい年」と嘆いた年でもあります。なぜ西郷隆盛は「一生の中で一番悲しい年」と嘆いたのでしょうか。それは西郷隆盛の祖父、父親、母親が一年の間に亡くなってしまったからです。

 

 

 

父・吉兵衛(風間杜夫)と母・満佐子(松坂慶子)が相次いで亡くなったことで西郷家は隆盛が一人で支えなくてはならなくなり、悲しみの上に貧乏で葬式代を支払い苦しい生活をしなければならないリアルな苦しみも味わなくてはなりませんでした。

 

 

 

黒船がやってきた事がチャンスに

 

1853年。日本の歴史にとって大事件が発生します。その代事件はペリーが艦隊を率いて日本に開国を迫ってきたことです。ペリーは日本の浦賀にやってきて為、日本中で攘夷問題が発生します。

 

 

 

島津斉彬はペリー来航の翌年、参勤交代の為江戸へ向かうことになります。西郷隆盛は斉彬に従って江戸へ向かうことにします。西郷は斉彬と一緒に江戸に向かう共に加えられると出世することになり、「お庭方」と言う役職に就任します。

 

 

 

この「お庭方」と言う役職は斉彬の非公式の秘書的な存在であり、主に表に出すことのできない秘密のやり取りを行うのが仕事でした。

 

 

 

 

尊敬していた人物との出会い

 

西郷隆盛は島津斉彬から「お庭方」に任命されるすぐに仕事を命じられます。島津斉彬から命じられた西郷隆盛の仕事は水戸藩との接触です。ペリー来航によって攘夷論が時代の中心となります。

 

 

 

水戸藩は藩主・松平斉昭が尊皇攘夷論を掲げて、藩の国力の増強に努めていました。島津斉彬は開国論者でしたが、攘夷論を掲げながら尊皇の点で水戸藩と共感していたことから、水戸藩と繋がりを持つため西郷隆盛に命じるのでした。

 

 

 

西郷隆盛は水戸藩と接触して色々と情報を集める中で、以前から尊敬していた藤田東湖と出会うことになります。西郷隆盛は藤田東湖と会見した時、嬉しすぎて帰り道を忘れてしまうほどでしたが、斉彬から命じられた仕事を忘れたわけではありませんでした。

 

 

 

西郷隆盛は水戸藩の動向を調べて島津斉彬に報告します。こうして西郷は斉彬の仕事を果たすと同時に、色々な人々と出会うことによって、知識や考え方を仕入れるのでした。

 

 

 

博識の人物達と意見交換

 

西郷隆盛の元に越前藩士・橋本左内や熊本藩の長岡監物、津田山三郎などの人物たちがやってきて国家のことについて語り合います。西郷は志の高い人物たちと一緒に語り合うことで、国内外に付いて知識や考え方を深めていきます。

 

 

 

こうして色々な知識を増やしていく中で、西郷は下関の豪商・白石正一郎を藍玉の件で助けることになります。

 

 

この件がきっかけとなり、白石正一郎と西郷隆盛は仲良くなり、白石家は今後薩摩藩の活動拠点の一つとなるのです。こうして西郷は天下の志の高い人物達にその名を知られることになります。

 

 

 

西郷隆盛が天下にその名前が広まっている頃の徳川将軍は、徳川家定と言う人物でした。徳川家定は正室に早くに亡くなってしまい、その後正室になった奥さんも亡くなってしまいます。

 

 

 

そこで島津斉彬は島津家の分家の娘を自らの養女として迎えた後、近衛家の養女としてもらいます。そして将軍家に近衛家の養女となった娘を将軍家へ嫁がせます。この近衛家の養女となった人こそ大河ドラマにもなった天璋院篤姫(北川景子)です。

 

 

 

こうして将軍家の大奥にはいった篤姫ですが、将軍家定との間に子供が生まれることはありませんでした。更に将軍家定は病弱であり、子供もいないことから後継者の問題が浮上してきます。

 

 

 

徳川幕府の幕臣・井伊直弼らは御三家の紀州藩から将軍の後継を迎え入れるべきだと主張します。しかし各地の名君と言われた人達は一橋家の慶喜を将軍とするべきであると主張し、両者は激しくぶつかり合うのでした。

 

 

 

西郷隆盛は斉彬から命じられて越前・福井藩の藩主松平春嶽へ密書を持って行き、橋本左内達と一橋慶喜がどうすれば将軍になれるのかに付いて話し合っています。その後西郷は篤姫から手紙を託され、京都の近衛家へ運びます。

 

 

 

京都に到着した西郷隆盛は近衛家の僧・月照に手紙を渡して、仕事を終えます。こうして西郷は慶喜を将軍とするべく奔走しますが、報われることはありませんでした。

 

 

 

御三家から将軍を迎えようとする派閥らが大奥や関白を動かして、将軍の後継者を御三家・紀州藩の徳川慶福に決めてしまうのでした。こうして徳川幕府第十四代将軍は徳川慶福改め家茂が務めることになります。

 

 

 

島津斉彬死す

 

西郷隆盛は鹿児島に帰る前に橋本左内から松平春嶽が島津斉彬宛に書いた手紙を預かり、江戸を後にし、京都へと向かいます。西郷隆盛は京都に到着すると吉井友実に京都で情報収集をするように命じた後に、鹿児島へ帰還すます。

 

 

 

西郷隆盛は鹿児島に到着すると島津斉彬と会見し、春嶽の手紙と自らの意見を述べます。島津斉彬は西郷から意見を聞くと激怒し、西郷へ京都に向かうように命令します。西郷は鹿児島に帰って休む暇もなくすぐ京都へ向かうことになります。

 

 

 

西郷は京都に到着すると京都近辺の情報を集めていた吉井友実と一緒に大阪城代を訪ねると、幕府が諸藩に対して弾圧の方針を強化していることを知ります。

 

 

 

西郷はこのことを知るとすぐに梁川星巌らと一緒に対策を話し合い、島津斉彬へ上京を要請する使者を鹿児島へ送りますが、この使者は西郷へ衝撃の事実を伝えることになるのです。

 

 

 

西郷隆盛は鹿児島に送った使者から島津斉彬が軍事訓練中に亡くなった事を知らされます。西郷隆盛は自分を引き立ててくれた島津斉彬の死を知って、殉死を図ろうとします。

 

 

 

しかし近衛家の僧・月照は西郷の殉死を引き止め、月照の説得を受け入れた西郷は殉死を思いとどまるのでした。西郷は殉死を思いとどまっていた頃、大老職に就任した井伊直弼は、一橋慶喜を後継者として運動していた人達を弾圧するため動き始めます。

 

 

 

井伊直弼は慶喜を推薦していた人達が水戸藩へ密勅を与えていたことを取り上げて、慶喜を推薦していた人物達の弾圧を開始します。この弾圧には近衛家の月照にも危険が迫って来るのでした。

 

 

 

月照を救うために藩の重役を説得

 

西郷は幕府の弾圧政策が近衛家の僧・月照に危険が迫っていることを知ります。西郷は近衛家から月照を保護して欲しいと依頼されるとこの依頼を快諾し、月照を薩摩藩で匿うために鹿児島へ帰ってきます。

 

 

 

西郷は鹿児島へ帰ってくるとすぐに藩の重役達へ月照を薩摩藩で匿って欲しいと要請します。しかし薩摩藩の重役達は幕府の弾圧を恐れて月照を匿うことに反対します。西郷は藩の重役に反対されても何度も説得に赴きますが、成功しませんでした。

 

 

 

そんな中、平野国臣と一緒に薩摩藩へやってきた月照ですが、薩摩藩は月照を日向の国へ向かう途中で殺害するように西郷へ命令を下します。西郷は近衛家から月照を依頼された約束を破るわけには行かず、かと言って藩命に背くわけにも行かず悩んでしまいます。

 

 

 

この悩みを解決するための案が思い浮かばないまま、西郷は日向の国へ月照を送る日が来てしまいます。西郷・月照・平野・月照の従僕の四人は船に乗って鹿児島を離れます。

 

 

 

西郷は錦江湾から出ようとするところで月照を抱えて海へダイブし、月照と一緒に自殺しようと図ります。しかし西郷と月照は平野に救助されることになりますが、月照は既に亡くなっており、西郷だけが奇跡的に助かります。救助された西郷は奄美大島へ流されることになります。

 

 

 

奄美大島に流された西郷隆盛は龍郷村に家を借りて自炊暮らしをすることになります。西郷は扶持米6石をもらっていたので、罪人として流されたわけではありませんが、なれない島暮らしで困惑してしまいます。

 

 

 

しかし西郷は島民に読み書きやソロバンを教えていった事から島民から信頼されるようになり、島民の娘を娶って男の子と女の子を一人ずつもうけます。西郷はこうして島民達に信頼され、奄美大島の生活が安定した頃、薩摩藩から帰ってくるように命令を受けるのでした。

 

 

 

 

恐れながら地ごろなので無理です

 

薩摩藩の藩主・島津忠義の後見人で藩の実権を握っている島津久光(青木崇高)は、幕府と朝廷の間に立って周旋したいと考えます。しかし島津久光は朝廷や幕府に知り合いがいないことから、自らの腹心として大久保や堀、小松達に相談します。

 

 

 

彼らは島津久光へ西郷隆盛を藩に戻すことを進言します。島津久光は彼らの進言を受けて西郷隆盛を鹿児島へ戻すことにします。西郷は久光の使者から鹿児島へ戻ってくるように伝えられると村の人達へ挨拶した後、鹿児島へ向けて出発します。

 

 

 

西郷は久しぶりに鹿児島へ帰ってくるとすぐに久光に呼ばれて意見を求められます。西郷は久光に斉彬のような人望がない事や久光が官位を持っていないことを理由に上京するべきではないと発言します。

 

 

 

更に西郷は自分の事を「恐れながら地ごろなので周旋することはできません」と断ってしまいます。島津久光は西郷の直言に怒り、西郷を下がらますが、大久保が西郷を説得し、大久保の意見を受け入れた西郷は久光の上京に付き従うことにします。

 

 

 

西郷は久光の上京より先に鹿児島を出て村田新八と一緒に下関へ先乗りするのでした。

 

 

 

鹿児島へ逆戻り

 

西郷は待機命令を下関で受けると白石正一郎の家で、志士活動共にした平野と出会います。西郷は平野から志士達が京都に久光が兵士を率いてやってくるとの情報を聞いて、過激化しているとの情勢を聞くとすぐに村田新八を連れて京都へ向かって行きます。

 

 

 

西郷は久光の命令を無視して京都に到着すると過激な行動をしている志士達を沈静化させるべく行動します。島津久光は西郷が自分の命令を無視して京都に行っていることを知って激怒し、西郷を捕縛しろとの命令を出します。

 

 

 

西郷は久光の命令を受けた官吏に捕縛されると船に乗せられて、鹿児島へ逆戻りすることになるのでした。久光は朝廷からの命令を受けて西郷を捕縛した後、寺田屋に宿泊している過激派の志士達を鎮圧するため、大山綱良や奈良原繁などを差し向けて説得を試みます。

 

 

 

久光はもし寺田屋にいる過激志士達が自分達の説得を受け付けない時は殺害してもいいと命令を出します。この命令を受けた大山達は寺田屋にいる薩摩藩の過激志士達を説得を始めますが、彼らを説得することはできずに討ち取るのでした。

 

 

 

朝廷は寺田屋の過激志士達を鎮圧した島津久光に信頼を寄せるのでした。

 

 

 

再び遠島へ流される

 

西郷は鹿児島に到着すると徳之島へ向かうことになります。西郷は徳之島に到着すると西郷の息子と娘を連れて大島で娶った妻がやってきます。西郷はこの奥さんと子供達に久しぶりに会い、平穏な暮らしができると思っていました。

 

 

しかし西郷の願いは打ち砕かれてしまいます。徳之島にいる西郷の元に薩摩藩から沖永良部島へ向かう命令が下されてしまいます。西郷は藩の命令に従って家族達と別れて沖永良部島へ向かいます。西郷は沖永良部島に到着すると牢屋に入れられて、牢屋で生活することになります。

 

 

 

当初この牢屋の環境が劣悪すぎて西郷は病気にかかってしまいますが、島に駐在している藩の役人が私財をなげうって西郷が住んでいる牢屋を改修したことにより、以前の劣悪な環境が改善されることになります。環境が改善されたことによって西郷の病気も回復に向かうのでした。

 

 

 

西郷隆盛が監禁されている頃、島津久光の元に朝廷から幕政改革をするようにとの勅使がきます。久光は喜び勅使と一緒に江戸へ向けて出発し、江戸に到着した勅使は幕府へ幕政の改革をするように伝えます。

 

 

 

幕府はこの朝廷からの命令を受けて一橋慶喜を将軍の後見職、松平春嶽を政事総裁職、松平容保を京都守護職に任命することを決定します。こうして久光は朝廷と幕府の間に立って周旋する願いが叶うことになり、江戸から京都へ帰ることにします。

 

 

 

久光は京都へ帰る道筋に事件が起こります。それは久光一行が東海道を通って京都に帰る途中、旅行中のイギリス人達が久光の行列を横切ってしまいます。久光の従者達はイギリス人達が横切ったことに激怒して、イギリス人達を斬り捨てて半分にしてしまいます。

 

 

 

この事件は歴史の教科書で必ず目にする「生麦事件」と呼ばれる事件です。薩摩藩はこの事件がきっかけとなりイギリスと戦うことになり、薩摩とイギリスの戦いを「薩英戦争」と呼ぶことになります。

 

 

 

島津久光は薩英戦争を行う前に京都に立ち寄りますが、久光が江戸へ居なくなっていた少しの期間で京都の情勢が変化し一気に攘夷論に傾いていました。

 

 

 

久光は朝廷と幕府の間に立って融和していく環境を作り上げた後、朝廷を中心とした政権を確立しようとしていましたが、攘夷論が京都の情勢の主流となったで、朝廷も身動きがとれなくなってしまいます。

 

 

 

久光は攘夷論をひっくり返して朝廷と幕府が仲良く政治を行うような時間も状況もありませんでした。それはイギリス人達が怒って薩摩藩に攻め込んでくるという噂が流れていたことなどが原因です。そのため久光は京都の不穏な状況に憤りながら、戦の準備のため鹿児島へ帰るのでした。

 

 

 

 

再び時代の表舞台へ

 

島津久光は薩英戦争が終わり、イギリスとの和平交渉を終結させると再び京都へ目を向けます。京都の情勢は久光が去った後ますます攘夷論が高まり、攘夷論を唱えていた長州藩が朝廷を操っている状態でした。

 

 

 

市内では過激攘夷論者達が暴走して攘夷論に賛成しない人を殺害したり、民家に押し入って、略奪行為などを働いておりました。

 

 

京都守護職に任命された会津藩の松平容保は、テロリストと化した過激攘夷論者を鎮圧しようとしますが、過激攘夷論者の中心となっている長州藩などの諸藩が、朝廷の攘夷論を唱えている公家達と手を結んでいたため、容易に鎮圧できる状態ではありませんでした。

 

 

 

島津久光は努力して朝廷と幕府の手を握らせることに成功したのに、過激攘夷論を唱えている長州藩や公家達が朝廷を牛耳っている状況に激怒していました。こうした状況から久光は会津藩と手を組んで一緒に過激攘夷論を唱えている長州藩や公家達を一掃する作戦を計画します。

 

 

 

両藩は兵を動かして朝廷の御所を守ることにします。両藩の意向を受けた公家はすぐに天皇に上奏して、長州藩と手を組んでいた過激攘夷論を唱えていた公家達を参内できないようにします。更に天皇は長州藩へ御門の守備の役目を解く命令を出します。

 

 

 

こうして両藩は長州藩を京都から追放することに成功し、長州藩と結託していた公家達も追い出すことに成功します。

 

 

島津久光は会津藩と手を組んで京都情勢を安定させたことで、再び朝廷と幕府に加えて諸大名達を巻き込んで幕政を安定させるために周旋しようと計画を立てますが、一橋慶喜、会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬の三人が京都政権を握ってしまいます。

 

 

 

久光は京都の政権が彼ら三人に奪われてしまい、なんとか奪え返そうと努力しますが、政治力に長けた人材が薩摩藩に不足していたためできませんでした。大久保一蔵や小松帯刀ら久光側近は島津久光へ西郷隆盛の罪を許して起用するように進言します。

 

 

 

久光は彼らの進言を受け入れて西郷の罪を許す旨の手紙を西郷へ届けます。西郷隆盛は久光の召還を受けて再び鹿児島へ帰還することになり、歴史の表舞台へ再び登場することになります。

 

 

 

こうして西郷隆盛は再び京都へ向かうことになり、失地回復を狙ってきた長州藩を会津藩と一緒に撃退することに成功します。この戦いを「禁門の変」と呼びます。

 

 

 

第一次長州征伐開始

 

西郷隆盛は長州藩を京都から追い出すことに成功すると、朝廷から長州藩を征伐する勅命が幕府へ下ります。徳川幕府は朝廷の意向を受けて、長州藩を征伐するように諸藩へ命令を下します。

 

 

 

長州征伐の総大将は御三家・尾張藩の徳川慶勝が任命され、西郷隆盛は参謀長に任命されます。西郷隆盛は参謀長に任命されると長州藩を討伐するべしと意気込んでいましたが、ある人物と出会ったことによって考え方が変化します。

 

 

 

西郷の考え方を変化させた人物とは幕末を代表する偉人・勝海舟です。西郷は勝海舟と出会い昨今の政治状況、長州藩の扱い方などを語り合います。

 

 

西郷は勝海舟の考え方を聞いて共感し、長州藩を討伐する方針からガラリと変わって、長州藩を痛めつけるもほどほどにする緩和策を推進していくことにします。こうして西郷は長州征伐の総大将・徳川慶勝と会見して、長州藩に対して緩和政策を進言します。

 

 

 

徳川慶勝は西郷の意見を採用して長州藩の処罰を西郷に一任することにします。西郷は長州藩の処罰を一任されると長州藩の家老と会見して話し合いを進めます。

 

 

西郷は長州藩の家老を処分すれば長州征伐を中止するとの提案をし、長州藩側の家老たちも西郷の意見を受け入れることにします。長州征伐の総大将徳川慶勝は西郷の長州への対応を受け入れることにします。

 

 

 

こうして長州征伐の軍勢は解散し、征伐は中止されることになります。西郷隆盛の名前は薩摩や長州だけでなく、幕府のお偉方や諸藩にその名が知られるようになります。

 

 

 

幕府は長州への罰が優しすぎると激怒し、徳川慶勝へ長州藩の藩主親子と京都から逃亡して公家達を江戸へ連れてくるように命令を出します。しかし徳川慶勝は幕府の命令を無視して征伐軍を解散させてしまうのでした。

 

 

 

西郷隆盛は長州藩が帰順しようとしているのに、なんで幕府はそんな厳しいバツを与えるのだと幕府の方針に怒ります。西郷は幕府の方針と自らの意見を薩摩藩の上層部へ伝えて今後の方針を話し合います。

 

 

 

その結果薩摩藩は西郷の意見を受け入れて長州と幕府の私闘であり、幕府からの出兵命令が来たら拒否する方針を定めます。西郷はこの頃薩摩藩の家老組に出世を果たすことになります。さて幕府の方針に怒ったのは西郷や薩摩藩だけではありませんでした。

 

 

 

歴史を動かした薩長同盟

 

土佐藩の中岡慎太郎は幕府のやり方や対応に怒りを感じ、薩摩と長州を連合させるべく奔走します。まず中岡は同じ藩で公家に仕えていた土方久元や坂本竜馬を説き伏せ賛同を得ると、長州の木戸孝允に対して薩摩藩と連合するように説得を開始します。

 

 

 

そして土方は長州藩の軍事を担っている諸隊(奇兵隊等)の幹部に対して薩摩と連合するべしと説得を行います。西郷隆盛は京都で朝廷へ幕府が長州藩に対して、討伐行動の協力をしないよう説得を続けている最中、坂本竜馬と会談します。

 

 

 

西郷は坂本竜馬から長州藩へ武器弾薬を薩摩藩名義で外国から買って長州藩へ受け渡す内容を聞かされます。西郷隆盛は坂本竜馬の提案に合意することにします。

 

 

 

その後西郷は鹿児島へ帰って幕府の強大な兵力に対抗するため、久光を説得して小松帯刀と一緒に兵を率いて上京します。

 

 

こうして緊迫した状況の中、京都で薩摩の西郷隆盛、大久保一蔵、小松帯刀、長州の桂小五郎は坂本竜馬の周旋によって会談し、薩長同盟を締結することになります。薩長同盟が成った事で歴史は大きく転換することになるのです。

 

 

 

幕府は長州征伐を強行的に行い、四方面から長州藩へ攻撃を仕掛けます。長州藩は高杉晋作の電撃的な作戦と明治陸軍の父と呼ばれた大村益次郎の活躍によって、幕府軍を各地で撃退します。苦戦した幕府は薩摩藩へ出兵要請を行います。

 

 

 

しかし西郷隆盛は朝廷へ長州征伐反対の意見を提出すると共に薩摩藩主・島津久光の名前で幕府から受けた出兵要請を拒否する文章を送ります。幕府は薩摩藩の出兵拒否されてながらも長州軍と戦い各地で敗北してしまい、将軍・徳川家茂が亡くなってしまいます。

 

 

 

幕府軍は将軍・家茂が亡くなった事がきっかけで、朝廷へ長州征伐の中止の意見を行い、朝廷がこの意見を受け入れるとすぐに長州から軍勢を撤退させて行きます。将軍の位を継いだのは最後の将軍として有名な徳川慶喜です。

 

 

 

新たな将軍が幕府の運営を行うことになりますが、ひとまず長州征伐は幕府軍の大敗北で終わりを迎えることになります。

 

 

 

 

倒幕の決意を固める

 

西郷隆盛は長州征伐が終わると越前福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂、そして薩摩の島津久光の四人を集めて会議を開くため奔走します。

 

 

 

西郷隆盛の努力は報われることになり、四人は京都に集合して、将軍・徳川慶喜に対抗するため政治的な主導権を握るべく話し合いが行われます。

 

 

 

しかしこの話し合いは諸藩の思惑の違いによって決裂することになります。西郷はこの会議が失敗したことにより、幕府を武力で倒すしかないと決意を固め、鹿児島から兵を呼び寄せて倒幕への準備を行っていきます。

 

 

 

そんな中土佐藩は幕府の政権を朝廷へ返還する「大政奉還」を実現するべく動き始めます。この「大政奉還」の運動の中心人物は坂本竜馬と後藤象二郎です。彼らは西郷へ幕府を倒す挙兵を延期して欲しいとお願いします。

 

 

 

西郷は彼らの意見を一旦拒否しますが、後日考えを改めて二人の意見を受け入れることにします。西郷は彼らの意見を受け入れながら、幕府討伐の勅許を天皇から得るため、朝廷工作を大久保一蔵達と一緒に行っていました。

 

 

 

更に西郷は長州藩の藩主・毛利敬親へ幕府討伐の軍勢を出してもらう要請を行い、許可を得ることに成功し、朝廷からも倒幕の許可が下りることになります。こうした西郷の動きの中、政局はどんどん進んでいきます。

 

 

 

将軍・徳川慶喜は朝廷が政権を運営する能力がないと見越して、朝廷へ政権を返還する「大政奉還」を行います。こうして朝廷は政権を運営する力を手に入れます。

 

 

 

鳥羽伏見の戦い

 

西郷隆盛は倒幕の密勅を手に入れると藩内の意見を倒幕論に統一するためすぐに鹿児島へ帰ります。西郷は鹿児島に到着するとすぐに藩の重役を倒幕論に統一する説得に成功し、兵士を率いて鹿児島を出発し、京都に到着します。

 

 

 

長州藩は薩摩の兵士達が京都に到着した数日後、京都に着陣します。西郷は京都に到着すると諸藩に出兵してくれるように交渉を重ねながら、朝廷を動かして王政復古の大号令を発令します。

 

 

 

そして薩摩藩や長州藩などの諸藩は朝廷から命令を受けて、会津藩らを追い出して宮中警護を行うことになります。その後明治天皇を前にして倒幕派の岩倉具視、慶喜を擁護する山内容堂、松平春嶽は御所で会議を開き紛糾します。

 

 

 

しかしこの会議は西郷に勇気づけられた岩倉具視が反対意見を押し切って、倒幕に動き出すことになります。

 

 

その頃幕府は大阪に駐屯していた兵士達を京都へ向かわますが、鳥羽街道を封鎖していた薩摩軍と接触し戦闘が開始されます。この戦いは「鳥羽伏見の戦い」と呼ばれることになり、戦闘開始直後は薩長軍が優勢でした。

 

 

 

しかし圧倒的な兵数を持つ幕府軍は少しづつ優勢になっていきますが、開戦二日目、薩長軍の元に上がった官軍を表す「錦旗の御旗」が上がったことで、幕府軍の士気が大きく低下し、各地の戦線で幕府軍は大阪城へ撤退していくことになります。

 

 

 

こうして鳥羽伏見の戦いは薩長軍の勝利で幕を閉じることになります。

 

 

 

江戸城無血開城

 

西郷隆盛は鳥羽伏見の戦いで幕府軍に勝利すると独断で東海道軍の先鋒を率いて出陣していき、東海道の重要拠点・箱根を占領した後、京都の総督府から江戸城総攻撃の命令を受けます。

 

 

 

西郷は江戸城総攻撃の命令を受けると現在大田区にある池上本門寺に本陣を定め、江戸城総攻撃の体制を整えていきます。勝海舟は西郷隆盛の元を訪れて、江戸城の無血開城を提案します。

 

 

 

西郷は勝海舟の提案を受けて後続する軍勢へ江戸城総攻撃の中止を示した後、京都へ行き、新政府の重臣達に江戸城を無血開城について話し合います。話し合いの結果、勝海舟の提案は新政府に受け入れられることになり、江戸城は無血開城することで合意することになります。

 

 

 

西郷隆盛は江戸城を開城させた後、上野の山に立てこもった彰義隊を打ち破ります。西郷は彰義隊を打ち破った報告を京都で行った後、健康が優れなくなったため、鹿児島に帰って養生に努めます。

 

 

 

北陸方面に進出した新政府軍は新政府軍に抵抗する奥羽列藩同盟が形成されると劣勢になってしまいます。西郷は北陸の新政府軍の戦況を好転させるため、北陸方面の司令官に任命され、越後に向かうことになります。

 

 

 

西郷は越後に到着すると新政府軍の士気が上がり、越後方面の反乱を鎮圧していきます。しかし庄内藩は越後を鎮圧した新政府軍に激しく抵抗して、何度も新政府軍を打ち破ります。

 

 

 

だが奥羽列藩同盟の中心であった仙台藩・会津藩が降伏した事で、庄内藩の反攻も弱まっていき、ついに庄内藩を降伏させます。西郷は黒田清隆に庄内藩に厳しくするのではなく、寛大な処置を行なえと言伝した後、

 

 

 

新政府からの出仕を断り、鹿児島へ帰って養生するのでした。しかし時代は西郷を休ませることをしませんでした。西郷隆盛は鹿児島に帰って養生に努めていましたが、藩主からの要請を受けて藩の政治改革をすることになります。

 

 

 

薩摩藩では戊辰戦争に従軍した下級武士達が褒賞をくれないと騒ぎ始め、不満が高まっていました。西郷はこの不満を解消するための政策を行いながら、藩の政治を改革することに尽力していきます。

 

 

 

 

新政府に参加することに

 

新政府は幕府を倒した後順調に政治を行っていたわけではありませんでした。新政府を樹立した際、功績があった人々へ恩賞を与えていましたが、この恩賞に偏りがあり、新政府内で不満が高まっていました。

 

 

 

更に新政府設立時に政権を運営するためのお金がほとんどなかったため、農民へ重い税金が課せられることになります。農民は重い税金を課せられた事に耐え切れずに反乱を全国各地で起こします。

 

 

 

これらの他にも大きな問題が数々あり、新政府の重臣達は政府を改革するため、民衆から人徳と政治手腕に長けた西郷隆盛を起用しようと考えます。新政府の重臣で西郷の親友・大久保利通は西郷を説得するため鹿児島へ向かい、西郷の説得を行います。

 

 

 

しかし西郷は大久保の説得を受け入れる事を拒否するのでした。だが、新政府はどうしても西郷を受け入れて政府改革を行うため、西郷の弟・西郷従道を西郷の元へ向かわせます。西郷は従道の説得を受けて再び新政府に参加する決意を固め、東京へと向かうことにします。

 

 

 

西郷は東京に到着すると早速新政府の改革に着手し、新政府の兵制の改革から始めます。新政府は薩摩・長州・土佐の三藩の兵力が主力となって幕府軍と戦ってきました。

 

 

 

西郷はこの三藩を中心に諸藩から兵を出させて御新兵とすることで、政府の改革を実行する力とします。御新兵の創設に成功した西郷は御新兵の力を後ろ盾にして新政府の人事を改造し、大久保や木戸孝允と廃藩置県の議論を激しく行います。

 

 

 

三人は何日も激しい議論を行い、廃藩置県の必要性を認め、天皇や大臣達のいる会議の席で廃藩置県を認めさせることに成功します。その後天皇は東京にいる旧藩主達を集めて廃藩置県を行う詔を下し、廃藩置県が実施されることになります。

 

 

 

西郷隆盛を中心とした政府が留守を守る

 

廃藩置県などの政府改革が実行された後、岩倉具視を全権大使として、副使に大久保や木戸、多数の留学生を連れて横浜港から旅立って行きます。岩倉具視達の目的は諸外国との間で結ばれた条約改正とヨーロッパの先進諸国を巡って法令などを参考にするためです。

 

 

 

しかし彼ら新政府の重鎮達が去ってしまえば、新政府が危ういのではないかと危惧した意見が多数出ていました。そんな危惧を払拭するため西郷隆盛は、彼ら新政府の重鎮達が居なくなった政府を安定させるため、留守を任されます。

 

 

 

西郷は新政府の重鎮達が居なくなった後、新政府を安定させるため、太陽暦の採用や地租改正条例の布告、徴兵制の実施等色々な政策を実施していきます。

 

 

 

明治政府は朝鮮へ新政府の親書を送付して外交関係を結ぼうとします。しかし朝鮮を支配していた李朝政府は新政府の親書の受け取りを拒否します。その後も朝鮮外交は依然として進展しませんでした。

 

 

 

西郷は朝鮮外交が進展しない理由を探るため、朝鮮の内情を調査させます。この調査の結果、李朝は天皇の親書を持った使節を馬鹿にして、朝鮮にいる日本人の身柄に危険が及んでいると報告されます。

 

 

 

この報告を聞いた外務少輔は武力によって李朝を討伐して、朝鮮にいる日本人を救い出し、李朝と外交関係を結ぶしかないと閣議に提案します。板垣退助は外務少輔の意見に賛成し、他の大臣達も賛成します。

 

 

 

しかし西郷はこの提案を聞いて武力を用いて李朝を刺激するのではなく、西郷自らが全権大使となって朝鮮との外交関係を結んでくるとの提案をしますが、反対されてしまいます。

 

 

 

西郷は何度も反対意見を述べる板垣や副島などの大臣達を説得して、ついに彼らの同意を得ます。西郷は彼らの同意を得ると再度閣議で審議を行い太政大臣三条実美も西郷案に同意し、閣議で決定されます。

 

 

 

この閣議決定を太政大臣であった三条実美は天皇に報告して勅許をもらおうとすると、天皇からヨーロッパにいる新政府の重鎮達が帰国後、議論を行うようにと提案されます。

 

 

 

西郷は新政府の重鎮達が帰ってきた後、再度話し合うことにします。しかしこのヨーロッパを回っていた新政府の重鎮達が帰って議論を交わすことによって、西郷の運命は大きく変化することになるのです。

 

 

 

西郷の運命を変えた「征韓論」

 

西郷隆盛は岩倉具視が帰還した後、先に帰国していた大久保や木戸達を加え、閣議で朝鮮へ使節派遣の問題が話し合われます。大久保達は朝鮮に使節を派遣するよりも日本の内政を整える事を優先するべきであるとの提案を出して西郷を朝鮮へ派遣する事に反対します。

 

 

 

しかし結果は西郷を朝鮮へ派遣する事が閣議で決定されますが、大久保や木戸、岩倉具視達が新政府を辞任する旨を太政大臣・三条実美に提出します。

 

 

 

三条実美は新政府の重鎮達が辞任させて西郷を李朝へ派遣するのがいいのか、それとも西郷の朝鮮派遣を取りやめて彼らの辞任を思いとどまらせるのがいいのか、思い悩んでしまい病にかかってしまいます。

 

 

 

太政大臣が病にかかってしまったため、岩倉具視が太政大臣代理として就任します。西郷は数人の大臣達と一緒に岩倉邸へ向かい、すぐに天皇に閣議決定された朝鮮へ使節派遣の報告をするように要請します。

 

 

 

しかし岩倉は彼らの意見と一緒に自らの意見を天皇に報告すると述べます。岩倉具視は天皇に閣議で決定された西郷の使節派遣とは別に、朝鮮へ使節を派遣するのは延期するべきであるとの意見を天皇へ報告します。

 

 

 

天皇は岩倉の意見を取り入れて西郷を朝鮮へ派遣する事を延期する決定を下します。西郷は岩倉具視が閣議決定を握りつぶしたことに憤慨して、以前もらった爵位を全て返上して新政府を辞任します。

 

 

 

西郷の辞任を聞いた板垣、副島、江藤らの大臣達も一緒に新政府を辞任し、西郷の案に賛成していた桐野利秋や別府晋介などの軍人や政治家達も辞任を提出して、新政府をやめていきます。

 

 

 

西郷と一緒に新政府を辞任した人600人と言われ、西郷が新政府の政治家や軍人から慕われていたのかが、お分かりになると思います。西郷は新政府を辞任した後、故郷の鹿児島へ帰って狩りなどをして過ごすのでした。

 

 

 

血気盛んな若者達を統御するため「私学校」を設立

 

西郷隆盛は鹿児島に帰ると政治的な事から身をひって悠々自適な毎日を過ごします。西郷が悠々自適な毎日を過ごしている間に、全国では新政府のやり方に激怒して若者達が反乱を起こします。

 

 

 

西郷は鹿児島にいる血気盛んな若者達が溢れていることを知り、このまま放置していれば、反乱を起こす可能性を危惧して、「私学校」を設立します。

 

 

 

西郷は砲術や銃などの学科なる学校を作り、血気盛んな若者達をこの私学校に入れて、教育を施します。西郷は「私学校」を作ることで、日本に何かあった時に教育を施された彼らを活用したいと考えていたそうです。

 

 

 

新政府は鹿児島県に西郷が作った「私学校」が鹿児島県に大きな影響を及ぼし、新政府から半独立状態になっていることを危惧します。

 

 

 

そこで新政府の要人達は鹿児島県の調査と西郷隆盛から「私学校」を離反させる事を目的とした密偵を鹿児島県に派遣します。しかしこれがアダとなってしまいます。

 

 

 

私学校の若者達は政府から派遣された密偵を捕らえて密偵の目的を知るため、尋問を行います。この尋問の結果、密偵達は西郷隆盛を暗殺する目的があると話してしまいます。

 

 

 

私学校の若者達は敬愛する西郷隆盛が新政府に暗殺されそうになっていることを知り、激怒します。私学校の若者達は鹿児島県内にある火薬庫を襲撃して、武器弾薬を奪う事件を連続して起こしてしまいます。

 

 

 

西郷隆盛は彼らの暴挙とも言える事件を知って驚き、すぐに鹿児島へ向かい彼らと話し合いますが、若者達が沈静化させることが難しいことを知ります。そして西郷は若者達が兵を率いて上京し、東京の新政府に意見を言う事に従い、ついに挙兵する決意をします。

 

 

 

城山で最期を迎える

 

西郷隆盛は兵士を率いて北上し、熊本城を陥落させるため攻撃を行います。新政府は西郷が挙兵したことを知って、すぐに熊本へ向けて軍勢を派遣します。

 

 

 

西郷隆盛率いる薩摩軍は熊本城の徹底抗戦を行い、中々陥落させることができませんでした。熊本城に手こずってていた西郷軍は博多から南下してきた新政府軍と田原坂で激戦を行い敗北してしまいます。

 

 

 

西郷軍は田原坂で敗北すと各地を転戦しますが、新政府軍と遭遇するたびに敗北してしまいます。こうして西郷は故郷・鹿児島へ帰還することにし、城山に陣地を作り新政府軍と最後の決戦を行うことにします。

 

 

 

新政府軍は西郷が城山に籠城している事を知るとすぐに城山を包囲して、総攻撃を行います。西郷軍は新政府軍と最後の決戦を行いますが、次々と新政府軍の圧倒的な火力によって、バタバタと西郷軍の兵士達が倒れていきます。

 

 

 

西郷隆盛は隊長の別府晋介を呼んで介錯してもらいます。こうして明治維新の三傑と呼ばれた西郷隆盛は最期を迎えることになります。西郷どんネタバレあらすじ予想ははここまでです。

 

 

 

 

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