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西郷隆盛の奄美大島の生活はどんなものだったの?

島

 

このページは、西郷隆盛奄美大島でどのような生活をしていたのかについて詳しくお伝えしていきます。なので、奄美大島でのい西郷隆盛のことを知りたいなら続きをご覧ください。

 

 

 

安政6年(1859年)から文久2年(1862年)までの間、西郷隆盛は、鹿児島を離れ、奄美大島で「菊池源吾」という名前で生活していました。西郷隆盛の奄美大島での生活はどのようなものだったのでしょうか?

 

 

 

西郷隆盛が奄美大島に来る前、江戸では井伊直弼が大老となり、尊皇攘夷派や井伊と対立する一橋派の大名、公卿、志士(活動家)への弾圧が始まっていました。

 

 

 

井伊の弾圧がエスカレートするなか、西郷は右大臣の近衛忠熙から、僧侶月照の保護を頼まれます。

 

 

月照は清水寺成就院の住職で、尊皇攘夷派の公家と通じ、将軍徳川家定の後継者問題では、井伊と対立する一橋派に関与していたため、危険視されたためです。

 

 

 

西郷隆盛は薩摩藩に月照を保護してもらおうと考えました。月照と別行動で鹿児島に向かい、重役にお伺いを立てる西郷の期待に反し、月照の入藩は許可されませんでした。

 

 

 

そうとは知らずに、すでに薩摩藩内に入っていた月照は身柄を拘束されます。藩は処遇を決めかね、月照を「日向送り」にすることを決めました。

 

 

 

「日向送り」とは、表向きは日向の国に送るとしながらも、藩境で切り捨てることを意味します。西郷は前途に絶望し、日向に向かう途中で月照とともに、冬の冷たい錦江湾に入水自殺を図ります。

 

 

 

慌てた同行者は二人を救助しますが、西郷だけが一命を取り留めました。薩摩藩は月照と西郷が死亡したと幕府に報告し、西郷を奄美大島の龍郷に潜伏させることにしました。西郷隆盛は墓まで建てられています。

 

 

 

 

西郷隆盛が奄美大島に到着

 

そして名前を「菊池源吾」と改め、安政6年(1859年)1月12日、西郷は奄美大島の龍郷に到着します。島に着いた西郷は龍佐民という島内屈指の富豪の世話になります。

 

 

 

龍は丁重に西郷をもてなしますが、扶持米を支給されている西郷は、やがて空き屋を借りて自炊生活を始めました。

 

 

島に来たての頃の西郷は、一人奇声を上げて木刀を振り回し、大木相手に相撲を取って鬱憤を晴らしていました。「大和のフムリン(狂人)」と島の住人から呼ばれ、怖がられていたほどです。

 

 

 

敬愛する主の島津斉彬を失ったこと、恩のある月照を薩摩が見捨てたこと、そして月照だけ死なせ自分だけが生き延びたことなど、やるせなさから自暴自棄になっていたのです。

 

 

 

しかし、やがて島の子どもたちに学問を教えたり、貧困者に自分の扶持米を与えたりするなど、島の暮らしに慣れてくると、西郷にも嫁をとらせようとする話が出てきます。

 

 

 

当事、薩摩藩では、鹿児島から派遣された役人や流罪で島に来た者は、正妻が藩内にいたとしても、島で妻を娶って良い決まりとなっていました。

 

 

 

しかしながら、島の妻は「島妻(あんご)」と呼ばれ、鹿児島に連れて帰ることは許されません。島妻との間にもうけた子どもだけが鹿児島に渡ることができ、勉学をして島役人に登用される機会が与えられました。

 

 

 

 

西郷隆盛に島妻

 

こうして安政6年(1859年)11月8日、西郷隆盛は島妻として愛加那(あいがな/あいかな)を迎えます。西郷隆盛が32歳、愛加那は22歳のときでした。

 

 

 

愛加那は龍佐民の一族出身で、目鼻立ちのはっきりした美しい女性だったそうです。もともとの名前が於戸間金(おとまかね/おとまがね)でしたが、西郷から結婚するときに「愛」の名前を与えられ、結婚を機に愛加那と名乗るようになります。

 

 

 

二人の仲は大変睦まじいものでした。その仲の良さは、西郷が人目もはばからず平気で彼女の体を触るため、相手が目のやり場に困ったほどです。文久元年(1861年)1月2日には、長男菊次郎が誕生しました。

 

 

 

二年目になると、この頃には、「すっかり島の人になってしまった」と大久保利通への手紙で伝えています。また、横目付(西郷の監視役)として旧知だった木場伝内が着任したこともあって、気心の知れた仲で一層暮らしやすくなりました。

 

 

 

西郷は島民の処遇改善を求め代官にも掛け合ったりしました。当事の奄美大島は、薩摩藩が専売していたサトウキビの栽培地として搾取され、住民の暮らしぶりは過酷なものであったからです。

 

 

 

そうした西郷の姿を見て、島民は西郷隆盛を敬愛しました。そして、西郷隆盛が愛する家族と幸せな日々を送っていたとき、鹿児島からの召喚状が届きました。ちょうど新居の建築が落成し、引越しをして盛大に宴を開いた夜のことでした。

 

 

 

愛加那はこのとき二人目の子どもを身ごもっていました。島妻の定めとはいえ、悲しくないはずはありません。愛加那はこのときのために、西郷の髪を櫛で梳いて抜けた毛を形見として取っていました。

 

 

 

文久2年(1862年)、1月14日に西郷は愛加那に見送られながら奄美大島を出発し、鹿児島に戻ります。

 

 

奄美大島に着たばかりの西郷隆盛は、失意のどん底にいましたが、やがて妻愛加那と出会い、子どもをもうけ、島にすっかり溶け込んだ生活を送っていました。

 

 

 

世情にまったく関心が無くなったわけではありませんでしたが、愛加那の存在は、失意の西郷隆盛の心の傷を癒してくれていたのかもしれません。

 

 

 

こうして鹿児島に戻った西郷でしたが、わずか4ヵ月後に再び流罪の身となり、島に流されるとは誰が予想できたでしょうか。西郷隆盛の波乱に満ちた人生はまだまだ続きます。

 

 

 

 

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