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西郷隆盛の最後はどういったものだったの?

切腹

 

2018年から大河ドラマ「西郷どん」が始まります。西郷隆盛といえば、明治維新の英傑に数えられる人物です。

 

 

しかし、英雄のはずの西郷隆盛は、政府から官賊とされ、西南戦争で自決するという、英雄というにはほど遠い最後を迎えました。西郷隆盛はどのような最期を迎えたのでしょうか。

 

 

 

西郷隆盛がなぜ政府と対立したのか、西南戦争が起こる前に話はさかのぼります。西郷隆盛は明治6年(1873年)、征韓論争に敗れた大久保利通と袂を分かったあと、中央政界を退き、鹿児島に帰郷しました(明治六年の政変)。

 

 

 

西郷を慕う薩摩出身者も続々と下野し、鹿児島に戻りました。鹿児島に戻った西郷隆盛は、さながら農夫のような生活を送っていました。しかし、下野した者の中には仕事もせず酒を飲み、徒党を組んで街を闊歩する若者もいます。

 

 

 

 

西郷隆盛が学校をつくる

 

西郷は彼らのために私学校を創設し、後進の育成にあたります。西郷の創設した私学校は、砲隊学校、銃隊学校から成り立っていました。

 

 

 

西郷を慕いついてきた者や、明治維新後の廃藩置県や廃刀令により、武士が冷遇されることに不満を持つ士族が続々と入学したことから、私学校は西郷隆盛の私兵としての様相を帯びます。

 

 

 

そのため、大久保利通ら中央政府は、西郷の動向に注意しなければなりませんでした。そのころの日本各地では、不平士族による反乱が相次いで勃発していました。

 

 

 

有名なところでは、山口の「萩の乱」があります。事態を重く見た政府は、明治10年(1877年)1月半ばに、西郷周辺の動向を探るため、25名からなる密偵を送り込みました。

 

 

 

しかし、密偵は私学校側に露呈していました。私学校青年らは密偵を捉え、西郷暗殺の計画を自白させたことで事態は急変します(自白は強要の可能性もあります。

 

 

 

頭に血が上って冷静さを欠いた青年たちは、私学校の軍議で挙兵を唱えます。軍議では、西郷隆盛を盟主として挙兵し、熊本城を攻めることで意見が一致しました。

 

 

 

西郷はこのときまで口を挟まず、じっと耳を傾けて軍議を聞いていました。そして挙兵へと意見がまとまると、一言、「おはんらにやった命、おいの身体は差し上げもうそう」と言っただけでした。

 

 

 

 

熊本城へと挙兵

 

明治10年(1877年)2月15日、五十年ぶりの大雪の中、熊本城に向けて軍が出発します。西南戦争の始まりです。熊本城を攻めますが、新兵器を備える政府軍に対して旧式の武器しか持たない西郷側は明らかに不利でした。

 

 

 

敗走に敗走を重ね、8月15日、西郷は軍を解散させます。およそ600人程度の将兵を連れて、鹿児島に戻ったのが9月1日でした。旧鶴丸城周辺にいた政府軍を排除し、城山に本営を築きます。

 

 

 

残っているのはわずか300名程度。銃を持っているものもその半数にも満たない状況でした。同月24日、およそ午前四時に政府軍の総攻撃が始まり、城山頂上の薩軍本営が制圧されます。

 

 

 

西郷たちは、砲撃を逃れながら山中を移動します。岩崎谷にあった砂取穴を広げ、後に「西郷洞窟」と呼ばれる洞窟を作ります。洞窟の中に逃れた西郷は一息つくと、おそらくこれが最後になるとでも思ったのか、世界地図を眺め、部下と碁を打ったといいます。

 

 

 

一局打ち終えると、西郷隆盛は死に装束として下着から何から新しい服に着替えました。紺の絹で作られた筒袖、白縮緬の兵児帯を締め、赤い鞘の脇差にフランス製の拳銃といういでたちで洞窟を出て、将兵40名と最後の閲兵を行いました。

 

 

 

その後、一列になって岩崎谷口方面に向かって歩き、弾丸が降り注ぐなか、細い坂道を下り始めたのです。次々と周りの将兵が被弾し、負傷していきます。

 

 

 

ある幹部が「もうここでよかごあはんどかい?(もうここいらでよろしいのではないですか)」と自決を促しますが、西郷は「まだまだ、本道に出てから」と答え、歩みを止めません。さらに坂道を駆け下ります。

 

 

 

途中でまた幹部が声をかけますが、「まだまだ!」と西郷は気にも留めません。洞窟を出て300メートルほど下ったころで、ついに西郷もお腹と腿に被弾し倒れます。そこでようやく西郷隆盛は、別府晋介に「晋どん、晋どん、もうここらでよか」と声をかけました。

 

 

 

西郷隆盛の最期

 

西郷は被弾した箇所の激痛に耐えながらも、皇居のある東の方角へ正座し、身体を折ります。一礼した別府晋介が「ごめんなったもんし!」と声をかけ、西郷隆盛の首を落としました。介錯した別府晋介もその場で自害しました。

 

 

 

西郷隆盛の首は部下の手により付近に埋められます。残された将兵も死に物狂いで戦い、壮烈な討ち死にを遂げました。その後、政府軍の検視で首の無い死体が西郷隆盛のものであることが分かり、首もほどなくして見つかりました。

 

 

 

享年は49歳でした。西南戦争後、西郷隆盛を知る者は、西郷の死を一様に悲しみました。西郷隆盛は私学校徒に限らず、人望の厚い人物で、自然と周囲に人が集まる人物でした。

 

 

 

私学校の講堂で挙兵するという結論になったとき、それまで黙って聞いていた西郷がただ一言「おいの身体差し上げもうそう」といった潔さにも、彼の人柄がにじみ出ています。西郷に信頼を置いていた明治天皇も彼の死を嘆きました。

 

 

 

西郷隆盛は西南戦争の盟主に担ぎ上げられたという側面があったことも否めません。西郷を討つのは本意ではなかったという雰囲気が政界を漂い、西郷を死へと追いやったと、大久保利通を悪く思う者も出てきます。

 

 

 

大久保利通は明治11年(1878年)5月14日に、士族の襲撃を受け、暗殺されています(紀尾井坂の変)。奇しくも、明治維新の三英傑といわれるうちの2人が無残な最後を遂げたのは、何かの因縁を感じさせられます。

 

 

 

明治維新の英傑は、死後12年が経った明治22年(1889年)に、名誉が回復され、大日本帝国憲法発布の謝恩により正三位を贈られました。また、有志の手により、上野に銅像が建てられます。

 

 

 

西郷隆盛の最後は城山での自決という壮烈なものでしたが、死後も多くの者を惹きつける英傑であったといえます。

 

 

 

 

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