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西郷隆盛と勝海舟の関係はどんな仲だったの?

船

 

このページは、西郷隆盛と勝海舟の関係がどんなものだったのか詳しく解説しています。西郷隆盛と勝海舟の関係を知りたいあなたはコチラをご覧ください。

 

 

 

1868年(慶応4年)3月14日、新政府軍による総攻撃を目前に控えていたはずの江戸城は、突如として明治政府に明け渡されます。教科書などで江戸無血開城として知られる出来事です。

 

 

 

開城を断行したのは、明治維新の英傑西郷隆盛と、幕府陸軍総裁の勝海舟でした。この決断のおかげで、江戸市中の住民の150万人の生命と家屋、財産が戦災から救われたことになります。

 

 

 

江戸無血開城を実行した西郷隆盛と、勝海舟の関係はどんな仲だったのでしょうか?西郷隆盛と勝海舟の接点は、勝海舟が長崎海軍伝習所で教頭を務めていた時にさかのぼります。

 

 

 

勝海舟は西郷隆盛より4つ年上になりますが、旗本ながらも経済的には厳しい家系に生まれます。蘭学塾を開き、細々と生計を立てていた勝海舟ですが、黒船来航とともに、勝に転機が訪れます。

 

 

 

幕府が募った海防の意見書に書状を出し、その忌憚ない的確な意見が、老中の阿部正弘に認められたのです。晴れて長崎海軍伝習所の教頭として、オランダ人との仲介役として技術指導を受け、学生の面倒を見るようになった勝海舟。

 

 

 

 

勝海舟が西郷隆盛を知った時

 

彼が西郷隆盛の存在を知ったのは、鹿児島から沖縄までのコースで遠洋航海に出たときでした。当初薩摩の密貿易を調査する予定だった勝は、機転を利かせた薩摩藩主・島津斉彬によって薩摩藩内に迎え入れられます。

 

 

 

そこで島津と勝は西洋技術に関する知見を交わしますが、そのときに西郷隆盛という存在を知ったのでした。 そして、初めて二人が顔を合わせることになるのが、1864年(元治元年)9月11日、長州征伐を目前にしてのことです。

 

 

 

西郷隆盛は、禁門の変が起きたあと、1864年(元治元年)7月23日に、朝廷の長州征討の勅許を得て、諸藩に長州征伐のための出兵を働きかけていました。

 

 

 

同じ時期、長州は外国商船への砲撃をきっかけに、欧米諸国との関係が悪化し、8月には米英仏蘭の四カ国連合の艦隊と戦争を行っています。欧米諸国の兵力に長州はなすすべもなく完敗。

 

 

 

長州に幕府と戦う力は残っていませんでした。長州を征伐するのであれば今が好機のはずですが、肝心の幕府が動こうとしません。幕府は一体何をしているのか、と西郷の苛立ちは募るばかりです。

 

 

 

そんな時、西郷は勝海舟の名前を耳にします。勝海舟という軍艦奉行が聡明な人物であり、大阪に所要で来ているので会ったほうがいいと人から進められたのです。

 

 

 

そこまで言うのならば、と西郷隆盛もその人物に興味がわいてきました。そのときの勝海舟は、神戸の海軍操練所で軍艦奉行の任についており、海軍の創設に注力していました。

 

 

 

長崎海軍伝習所での働きが評価された勝は、実質咸臨丸の艦長として、アメリカに渡航し、広い知見を得ていました。

 

 

渡航生活によって、欧米の豊かさと兵力の強さを痛感した勝は、幕府の海軍ではない、日本全体の「日本海軍」を作ることが、欧米列強に対抗しうる方法だと考えます。

 

 

 

そこで将軍徳川家茂に直訴して、神戸海軍操練所を創立し、軍艦奉行として後進の指導にあたったのです。

 

 

 

西郷隆盛から面会を求められた勝海舟は、過去に島津斉彬から西郷隆盛の名前を耳にしてから、その後の活躍も知っていたので、快く応じます。

 

 

 

西郷隆盛は、勝海舟に欧米列強から要求されていた神戸湾開港の懸念と、長州征伐になかなか動こうとしない幕府に対する不満を伝えました。勝海舟は内輪もめに明け暮れる腐敗した幕府の内情を暴露します。

 

 

 

西郷隆盛は幕府への失望を感じながらも、勝海舟の知見と歯に衣着せぬ幕府への批判に驚きを隠せませんでした。勝海舟は幕臣という立場にありながら、徳川幕府の存続はよくないと思っていたのです。

 

 

 

欧米列強の脅威が目の前に迫っている今となっては、藩同士で小競り合いをしている場合ではなく、天下の賢候(薩摩・土佐・越前福井・伊予宇和島)が藩兵を率いて京へ上り、同盟することが必要だと考えていました。

 

 

 

西郷隆盛が、「日本」という新国家の確立に開眼した瞬間でした。面会を終えた西郷隆盛は、勝海舟という人物について、大久保利通への手紙で賞賛しています。その後の長州征伐において、西郷隆盛は長州藩の処遇を寛大な処罰にとどめています。

 

 

 

西郷のなかでは、欧米諸国の脅威が目前に迫っている今、もはや薩摩だ長州だと国の中で争っている場合ではなく、藩同士協力して幕藩政治を変えねばならないという思いがありました。

 

 

 

 

西郷隆盛の関係の変化

 

西郷隆盛が勝海舟の意見に触れ、考えを改めたことが伺えます。一方、勝海舟は、禁門の変以降、倒幕の動きが活発となっていた世相を受けて、幕府の保守派から警戒されます。

 

 

 

海軍操練所の塾生に坂本龍馬ら倒幕派の脱藩藩士がいたことや、さらに池田屋事件の当事者に塾生がいたことから、幕府は勝の軍艦奉行の職を解き、蟄居の処分を下します。

 

 

 

神戸海軍操練所も創立からわずか一年で閉鎖されてしまいます。勝海舟は、塾生の坂本龍馬を西郷隆盛に引き合わせ、薩摩藩で面倒を見てもらうように取り計らったうえで、政治の表舞台から一時身を引きます。

 

 

 

その後、西郷隆盛は、坂本龍馬の提案により、敵対していた長州と苦心の末和解、薩長同盟を結びます。このことで倒幕への動きが加速していきました。

 

 

 

その後、幕府は大政奉還を行い、後鳥羽伏見の戦いを経て、徳川慶喜は江戸城に逃げます。新政府軍は江戸への進撃を整え、強硬派である西郷隆盛が東征大総督府下参謀に任じられました。

 

 

 

幕府内の恭順派は徳川家の人事を変更し、再び勝海舟に白羽の矢を当てます。勝海舟は事実上徳川家の指揮官となり、恭順策を実行することになります。

 

 

 

新政府側は、3月15日に江戸城を総攻撃することを予定していましたが、その二日前に西郷隆盛のもとへ部下を遣わして、江戸開城の交渉を持ちかけました。

 

 

 

西郷隆盛もこれに応じ、迎えた会談で、江戸無血開城への道が開けたのです。徳川家による天下が終わった瞬間、そして戦国以来続く武家統治が終わった瞬間でした。

 

 

 

非業の死を遂げた西郷隆盛や大久保利通とは違い、勝海舟は日本が近代国家として体裁を整えていくさまを見届けました。

 

 

 

明治維新後、勝海舟は徳川家とともに静岡へ移り住みましたが、新政府からの相談を受けに東京に出ることもありました。旧幕府側の人間として、朝敵となった徳川慶喜の赦免に尽力し、徳川家を守りました。

 

 

 

また、西南戦争で逆賊となった西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、上野の銅像建立についても、勝が朝廷から許可を得るなどして支援しました。

 

 

 

後に幕末維新の時代について語った言葉は回顧録として歴史の証言となり、貴重な史料となっています。勝海舟は年を経てからも西郷隆盛のことをしきりに賞賛していました。

 

 

 

勝海舟は徳川家と宮家が念に和解したのを見届けたあと、1899年(明治32)1月に77歳で亡くなりました。

 

 

勝海舟は若いころに身に付けた蘭学の素養と、アメリカ渡航の経験によって、幕臣のなかでもいち早く世界のなかで置かれている日本の立場に気づくことができました。

 

 

 

そして欧米列強の植民地政策に対抗できる手段としての日本海軍の創設に奔走した人物でした。その卓越した知見と先見性によって、西郷隆盛に影響を及ぼし、明治維新へと導いた人物だったともいえるでしょう。

 

 

 

 

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