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西郷隆盛が島流しになった理由とは?

島

 

このページは、2018年の大河ドラマ「西郷どん」の主役・西郷隆盛島流しになった理由について、具体的に詳細にお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

文久2年(1862年)8月14日、明治維新の英傑・西郷隆盛は、島津藩の最高権力者である島津久光から、島流しの刑を言い渡され、沖永良部島に到着します。

 

 

 

二度目の島流しは、奄美大島での潜伏生活から復職したわずか4ヶ月後のことでした。なぜ西郷隆盛は島流しとなったのでしょうか。

 

 

 

答えは、島津久光の許可を得ることなく、勝手に大坂に行ってしまったからです。もちろんこれには理由があります。倒幕に向けて不穏な動きを見せていた攘夷過激派の藩士たちを説得するためです。

 

 

 

このとき大阪、京都は、どのような状況にあったのでしょうか。背景を探るために、西郷隆盛が奄美大島から復職した時点に話を戻し、薩摩藩が置かれた政治的な状況を見て行きたいと思います。

 

 

 

西郷が奄美大島から呼び戻されたのは、久光による上洛計画に随行させるためでした。井伊直弼の暗殺以降、薩摩藩は長州勢力の巻き返しに苦戦していました。

 

 

 

長州藩は幕府主導型での公武合体開国論を唱えて幕政に関与しようとしており、理路整然とした論理に幕府と朝廷からの受けが良かったのです。

 

 

 

薩摩藩は朝廷主導での公武合体を掲げていましたので、長州藩に対抗するため、大久保利通は朝廷工作を行おうとしますがあえなく失敗に終わります。

 

 

 

そこで、前代藩主島津斉彬が計画していた率兵上洛を久光が行うことで、薩摩藩の幕府における発言力を増やし、幕政改革を迫ろうとします。

 

 

 

しかしながら、久光の上京に合わせて、一部の攘夷過激派が倒幕運動を起こす可能性がありました。「過激派をおさえることができるのは西郷しかいない」と考えた大久保利通は、早速久光の説得に取りかかります。

 

 

 

 

島津斉彬の計画

 

そもそも今回の率兵上洛は、先代薩摩藩主、島津斉彬の計画していたものであって、彼の急死により頓挫したものの、直前まで西郷が段取りを行っていたのです。

 

 

 

さらに朝廷にも顔が利くとあれば、これに勝る人材はいません。西郷隆盛は赦免され、約3年ぶりに鹿児島の地を踏むことになります。

 

 

 

ところが、西郷は当初久光の上京に反対していました。西郷のなかでは「お由羅騒動」の禍根が残り、久光に対して良い印象など無かったのです。

 

 

 

大久保の説得もあり、西郷は協力することにしました。先発隊として、肥後の様子を視察し、下関で久光の到着を待つように命令されました。西郷は配下と一緒に鹿児島を出立します。

 

 

 

西郷隆盛が下関に到着したとき、案の定、攘夷過激派たちが久光の上洛に合わせて不穏な動きをしていることを察知します。脱藩藩士たちは久光の率兵上洛を倒幕運動の決起と勘違いしていたのです。

 

 

 

このまま久光らが上洛すれば、暴動は必須と考えた西郷は、事前に阻止するために、久光を待たずに大阪に向かいました。

 

 

 

大阪では、攘夷志士たちが京都焼き討ちや挙兵を計画しており、その阻止に動き回っていた西郷でしたが、命令を反故にされた久光は怒ります。

 

 

 

悪いことに、その騒動が、西郷が志士を炊きつけて起こしたという報告を久光は受けてしまいます。そのため、久光は西郷と部下の捕縛命令を出しました。

 

 

 

このとき、大久保利通も、西郷が暴動を起こすのではないかという疑念を払拭できないままでいました。

 

 

そのため、夜の浜辺に呼び出し、刺し違えることも覚悟の上で、西郷に捕縛され、おとなしく罰を受けるように促します。

 

 

 

 

大久保利通が西郷隆盛を説得

 

大久保の説得を受けた西郷は、一緒に鹿児島を出発した部下とともに捕縛され、鹿児島に送還されます。そして再び島流しとなり、奄美大島よりも遠い沖永良部島へと流されることになったのです。

 

 

 

当初、西郷は徳之島への流刑となっていました。徳之島に着いてしばらく経ったころ、奄美大島に残してきた島妻の愛加那が西郷を訪ねてきます。

 

 

 

二人の子ども菊次郎と菊草の顔を見せるためです。西郷が奄美大島を離れたころ、二人目の子ども菊草はまだ愛加那のお腹にいました。

 

 

 

しかし、家族の再会もつかの間、愛加那たちが乗ってきた船と同じ便で、沖永良部島への移送が通達されます。島津久光は、西郷への処分が甘いと判じたのです。

 

 

 

沖永良部島は島流しのでも一番罪の重い者が流される島でした。西郷隆盛は、奄美大島の潜伏時とは違い、今度こそ罪人として扱われ、過酷な環境におかれました。

 

 

 

この時代においては、沖永良部島はまだ未開の地同然でした。徳之島から沖永良部島に渡るまでの16日間は、牢屋のなかで過ごします。

 

 

 

沖永良部島についてからも、牢屋が完成していないということで、2日間は船牢に閉じ込められたままでした。牢獄の生活環境はとても劣悪でした。

 

 

 

わずか2坪余りの、吹きさらしの牢屋に閉じ込められました。高温多湿の南国の気候において、昼間は日照りが厳しく、台風の来る時期は風雨にさらされる始末です。

 

 

 

そして食事や水は必要最低限しか与えられず、日に日にやせ衰えていきました。しかし、その後監視役の配慮により座敷牢に移され、生活環境は改善します。

 

 

 

体調は徐々に回復し、西郷は牢越しに島の人々に学問を教え、酒の杯を交わすなど交流を深めました。さらに西郷は、飢饉になったときの備えとして、島に「社倉法」を教えました。

 

 

 

「社倉法」とは、豊作の年に穀物を高倉に蓄えておき、天災や飢饉のときに配給する仕組みです。「社倉法」は、その後沖永良部島で飢饉が起きたときに人々を助けたそうです。

 

 

 

こうして西郷隆盛は、奄美大島のときと同じように、島の人々から尊敬を集めました。西郷は牢での読書と瞑想のなかで、「天敬愛人」という考えにたどり着きます。

 

 

 

「天を敬い人を愛す」という信条に目覚めた西郷は、この後、明治維新の英傑の一人として、さらに多くの人を惹きつけながら、躍動する時代を駆け抜けて行くのです。

 

 

 

 

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