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西郷隆盛と篤姫の本当の関係を暴露します!

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このページは、大河ドラマ「西郷どん」の中でも注目されている西郷隆盛篤姫の関係についてお伝えしています。本当の関係を知りたいあなたは続きをご覧くださいね。

 

 

 

300年続いた徳川幕府の終焉を語るうえで欠かせない女性がいます。薩摩藩出身で、藩主島津斉彬の養子として育ち、徳川将軍家に輿入れした天璋院・篤姫です。

 

 

 

小説やドラマでは、史実よりもエンタテインメント性を優先し、西郷隆盛と篤姫の身分違いの淡いロマンスが描かれることもしばしばです。

 

 

 

今回は、二人の接点となる徳川家の輿入れと江戸無血開城の時点に焦点をあてて、西郷隆盛と篤姫の関係を暴露します。西郷隆盛と篤姫の接点は、以下の二点に絞られます。

 

 

 

篤姫が徳川家定に正室として輿入れするとき、そして江戸無血開城のときです。最初の接点である篤姫の輿入れについて見ていきます。

 

 

 

 

篤姫の輿入れ

 

篤姫に徳川家との婚姻で話があがったのが、1850年(嘉永3年)頃のことでした。世継ぎ問題で悩んでいた徳川将軍家から、島津家に徳川家世子である家定との婚姻が持ちかけられます。

 

 

 

当時、家定は公家から2人正室を迎えていたのですが、世継ぎが生まれなかったことと、二人とも病気で相次いで亡くした事情があったため、健康面で問題のない、丈夫な家系である島津家の女性を正室に迎えてみようと婚姻を持ちかけたのでした。

 

 

 

そこで白羽の矢が立ったのが、島津家の分家にいた篤姫です。しかし、ここで問題が発生します。家格の違いです。分家の出である篤姫を正室に迎えることに、家定の生母である本寿院が異を唱えました。

 

 

 

分家であるなら側室で十分だと提案したのです。しかし、島津斉彬は正室での輿入れと聞いていたので、側室での輿入れには到底同意できません。

 

 

 

正室に迎え入れられるために、そして分家だからといって軽んじられないように、篤姫を斉彬の養子として迎えることで体裁を整えます。

 

 

 

島津斉彬はさらに、老中の阿部正弘に働きかけ、公家で五摂家の一つである近衛家の養女としてもらうことにします。このときの朝廷工作を行い、近衛家に接近したのが西郷隆盛であったとされています。

 

 

 

こうして婚姻の話が持ち上がったときから6年の準備を経て、1856年(安政3年)に篤姫は徳川家に入りました。西郷隆盛は藩主島津斉彬が江戸に参謹するにあたり、1854年(安政2年)から庭方役として一緒に江戸に詰めていました。

 

 

 

斉彬が薩摩へ戻った後も江戸に残り、諜報活動をしていました。一方で、篤姫は江戸の薩摩藩邸に1853年からいたようですので、顔を合わせることがあった可能性もあります。

 

 

 

しかし、西郷隆盛は諜報活動の一環で斉彬からの命を受け、さまざまなところへ出入りしていたため、篤姫と会うことはそうなかったのではないかと考えられます。また、輿入れした篤姫には島津斉彬から一橋慶喜を次期将軍にするように促されていました。

 

 

 

この工作に関しても、西郷隆盛が間に立ち、斉彬と篤姫の間の橋渡しを行ったようです。しかし、あくまでも西郷隆盛は下級武士であり、この立場で恋仲になることは難しかったと思われます。

 

 

 

つぎに、西郷隆盛と篤姫の第二の接点である江戸無血開城を見ていきます。鳥羽伏見の戦いで劣勢に陥った徳川慶喜は、一人江戸城に逃げます。

 

 

 

篤姫は徳川側の人間として、徳川家を守ることを決め、指揮官を務める西郷隆盛に、徳川家を存続させるよう嘆願の書状を送っています。そして迎えた勝海舟との会談で、江戸無血開城を迎えた後、徳川家が続くように取り計らっています。

 

 

 

以上が西郷隆盛と篤姫との接点です。方や下級武士であり、方や藩主の養子という関係です。身分制の時代においては、上級武士と下級武士の家柄の格差は大きく、篤姫と西郷隆盛との間に恋仲になる要素はほとんどなかったのではないでしょうか。

 

 

 

 

篤姫と西郷隆盛の恋愛は難しい

 

身分制の社会だったから、と言ってしまえば身もふたもないのですが、そうだとしても、篤姫は西郷隆盛が敬愛してやまない島津斉彬の養女です。

 

 

 

島津斉彬に命じられて近衛家の養女にしてもらう朝廷工作を行ったことのある西郷隆盛にとっては、篤姫はかつて仕えた藩主の養女として、畏敬の念を抱いていたのかもしれません。

 

 

 

その証拠に、江戸無血開城の際、徳川家の存続を嘆願する手紙を篤姫から受け取った西郷隆盛は、その要求を呑む形で江戸無血開城を迎え、徳川家が存続するように配慮しています。

 

 

 

余談ではありますが、実際のところ、篤姫と恋仲にあったのは、勝海舟ではないのかという説もあります。篤姫と勝海舟が初めて会ったのは、江戸無血開城の前、江戸城の大奥に閉じこもっていた篤姫や女中たちを説得するために勝海舟が赴いたときです。

 

 

 

勝海舟は広い知見と先見性で優れた幕臣でありましたが、同時に非常に女好きな一面を持った人物であったとされています。幕府による政治が終わった後、静岡に移った篤姫は、庶民の暮らしぶりを見に、勝海舟と頻繁に出かけていたそうです。

 

 

 

御台所として大奥を切り盛りしていた篤姫ですが、篤姫の夫である徳川家定との夫婦生活は1年9ヶ月と短いものでありました。

 

 

恋愛というものを知らずに生きてきた篤姫にとって、推測にしか過ぎませんが、勝海舟との下町デートが、心をときめかせるひと時であったのかもしれません。

 

 

 

 

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